生涯
その出身は知られていない。1351年(至正11年)、(芝麻李)に従って徐州に拠った。1352年(至正12年)、芝麻李がトクトに敗れると、蔡遷は朱元璋に帰順し、その先鋒となった。1355年(至正15年)、朱元璋に従って長江を渡り、采石を下し、太平を攻略し、溧水を奪取し、元の蛮子海牙の水寨や陳埜先を撃破するにあたって、いずれも功績があった。1356年(至正16年)、朱元璋が集慶を平定すると、蔡遷は千戸に任じられた。
徐達に従って広徳・寧国を奪取し、万戸に転じた。1357年(至正17年)、常州に進攻し、黄元帥を捕らえ、都先鋒となった。馬馱沙への進攻に従い、池州を攻略した。1358年(至正18年)、樅陽を攻め、衢州・婺州への進攻に従い、帳前左翼元帥に任じられた。1360年(至正20年)、陳友諒を龍江で破り、進軍して太平を奪回した。1361年(至正21年)、安慶の水寨を奪取し、九江を占領した。瑞昌で陳友諒の八陣指揮を破り、南昌を攻略した。1363年(至正23年)、安豊救援に従い、合肥を攻撃し、鄱陽湖の戦いに参戦した。1364年(至正24年)、武昌への進攻に従い、指揮同知に進んだ。
常遇春に従って鄧克明の残党を掃討し、贛州に進攻した。1365年(至正25年)、南安・南雄を奪取し、兵を返して饒鼎臣を茶陵で追撃して、龍驤衛同知に転じた。1366年(至正26年)、徐達に従って高郵を攻略し、馬騾港[2]を破った。武徳衛指揮使に任じられ、淮安を守った。黄州に移駐して守備した。徐達に従って湘潭・辰州・全州・道州・永州を下し、荊州衛指揮となった。1367年、広西に進軍して経略し、広西行省参政に転じた。靖江王相を兼ね、少数民族の反抗を鎮圧した。1370年(洪武3年)9月、死去した。その遺体は南京に送られて葬られた。資善大夫・上護軍・行省右丞の位を追贈され[3]、安遠侯に追封された。諡は武襄といった。
参考文献
- 『明史』巻134 列伝第22