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生涯
蒲池氏は筑後の大身。祖父・蒲池繁久の代より、豊後国の大友氏幕下の筑後領主として存続していた。慣例によって大友氏当主大友親治から偏諱(「治」の字)を下賜されて治久と名乗る。
もともとは下筑後地方(筑後南部)の領主であったが、文亀年間(1501年 - 1504年)に蒲池城の支城である柳川城を築城し[1]、ここを蒲池氏の本拠とした(のち永禄年間(1558年 - 1570年)に孫の鑑盛(宗雪)によって同城の本格的な改築が行われている)。また同時期には長福寺を修改築し、以降この寺は蒲池氏累代の菩提寺となる(尚、同寺の名称は、享禄年間(1528年 - 1531年)に治久を埋葬した際、治久の法号に因んで宗久寺となり、さらに崇久寺と改められている)。他には永正4年(1508年)5月に将軍・足利義尹(義稙)の上洛の際に供奉したという史実も残っている。
(横溝城)(現:福岡県三潴郡大木町横溝本村)に実弟(久弘)を代官として在城させるなどして、蒲池氏の勢力拡大をはかったが、これを危惧した大友親治は、治久の次男・親広に上妻郡山下村(540町)の所領を与えて別家(上蒲池家)を興させることで蒲池氏の勢力を分割させた[2]。二家に分割された長男・鑑久の嫡流(柳川、下蒲池)と次男・親広の分流(山下、上蒲池)は双方とも同格の大名分として扱われ、共に筑後十五城に数えられる一族に発展していこととなる。
前述の通り、享禄年間(1528-1531年)以前に死去、遺体は崇久寺に埋葬された。家督は嫡男の鑑久が継ぎ、同時に柳川城主となった。