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董 扶(とう ふ、生没年不詳)は、中国後漢末期の官僚。字は茂安。益州広漢郡綿竹県の出身。『後漢書』方術伝に記述がある。
太学で儒学を学ぶ一方で同郷の学者の楊厚に師事し、同門の任安と共に図讖を学び、名声をほしいままにした。
仕官の誘いを断り続けていたが、霊帝の時代に何進の招聘を受け入朝し、侍中に任命された。劉焉が朝廷内の混乱を避けたいと考えていた折、交阯行きを希望する劉焉に対し、董扶は密かに「益州には天子の気がある」と進言した。これを聞いた劉焉は、自ら益州牧になることを願い出て認められた。董扶は蜀郡都尉に任じられ、劉焉に同行して故郷への帰還を果たした。
後に朝廷が戦乱で乱れたことを聞き、官を退いて引退した。82歳で没した。