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萱生城

萱生城(かようじょう)は、三重県四日市市萱生町城山にあった戦国時代日本の城山城)。文治年間(1186年~1189年)に一帯を支配した北勢四十八家の一つ、春日部氏の春日部宗方が築城した。1568年(永禄11年)に織田信長の北勢侵攻で攻撃を受け、後に落城した[1]。現在城跡学校法人暁学園の本部となり、わずかに「髪のびの井戸」などの遺構が残る。

萱生城
三重県
城郭構造 山城
築城主 春日部宗方
築城年 文治年間(1186年~1189年)
主な城主 春日部氏、春日部俊家
廃城年 1573年(天正元年)?、1578年(天正6年)?
遺構 髪のびの井戸、土塁
指定文化財 未指定
位置 北緯35度01分57.9秒 東経136度36分5.9秒 / 北緯35.032750度 東経136.601639度 / 35.032750; 136.601639
地図
萱生城
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概要

朝明川の南岸、標高55メートルの急峻な台地上に築城された山城で、規模は320メートル×160メートルであった[2]。1963年(昭和38年)度の学校法人暁学園の平面地形図で消滅前の形状を知ることができ、約30メートルの深い空堀で区切られた北東側の曲輪には、5-10メートルの堀を4重にめぐらせた一段高い25メートル四方の天守跡と呼ばれる壇がある。この曲輪の西側には、北西側が土塁、南西側が堀で区画された曲輪がある。朝明川流域の城では一番戦国期の城らしいであった[2]

1568年(永禄11年)、春日部俊家が守る萱生城は織田軍の攻撃を受けたが、要害の地ゆえに容易に陥落しなかった。しかし、次第に水・兵糧が不足し1573年(天正元年)に落城した[3][4]

城跡の遺構曲輪土塁などが残る状態となったが、学校法人暁学園の用地造成工事の際に削平され、現在は「髪のびの井戸」と呼ばれる井戸だけが残されている[4]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『伊勢軍記』では安土桃山時代の「天正6年(1578年)に戦があり落城した」としているが諸説ある。
  2. ^ a b 三重県教育委員会 1977 pp.33-35
  3. ^ 勢陽五鈴遺響』の記述
  4. ^ a b 「髪のびの井戸のいわれ」学校法人暁学園公式HP

参考文献

  • 三重県教育委員会 1977『三重の中世城館』三重県良書出版会

関連項目

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