莫光祖(ばくこうそ、マク・クアント、ベトナム語:Mạc Quang Tổ / 莫光祖)は、莫朝大越の第9代皇帝。名は莫 敬寛(マク・キン・コアン、ベトナム語:Mạc Kính Khoan / 莫敬寬)。
生涯
威王(莫敬用)の子で、宣宗の孫とされる。慶王に封じられていた。従叔の代宗が即位すると自立し、乾統2年(1594年)に大慈県で後黎朝に抵抗した[1]。乾統29年(1621年)、代宗から譲位されて即位した。
隆泰6年(1623年)に後黎朝の平安王鄭松が死去して、その子の清国公(鄭梉)と万郡公(鄭椿)の間で争いが起こると、これを好機と見た光祖は軍を南下させ、各地で後黎朝に対する反乱を煽ったが、8月26日(9月20日)に嘉林県で鄭梉に敗北して身一つで高平に逃げ帰った[2]。
隆泰8年(1625年)には鄭梉率いる後黎朝軍の侵攻を受けて、太上皇となっていた代宗らが捕らえられて殺害されると、次男の(莫敬宇)と共に明に逃亡した[3]。同年に遣使して後黎朝に降り、それまでの隆泰に代わって永祚の元号を用いるようにした。後黎朝より太尉通国公に封じられ、高平に戻ることを許された。