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荻野山中陣屋

荻野山中陣屋(おぎのやまなかじんや)は、相模国愛甲郡中荻野村(現在の神奈川県厚木市下荻野)にあった陣屋で、荻野山中藩の藩庁である。

「山中城址」碑
福伝寺山門(陣屋裏門と伝えられる)
地図

概要

小田原藩第5代藩主大久保忠朝の次男教寛は、相模国内に6千石分封され、分家となった。

その後、駿河国駿東郡5千石の加増を受け、1万1千石になり諸侯に列した。この頃、陣屋は駿河国駿東郡松長村(現在の静岡県沼津市)の松長藩内に置いていた。

荻野山中藩となったのは5代教翅のときで、陣屋を移したのは天明3年(1783年)である。陣屋を移したのは、参勤交代の費用を抑える狙いもあったとみられている。

陣屋の敷地は約2万平方メートルに及んだ。北部から南部に延びる低い台地にかまえた。三方を土塁に囲まれている。敷地の中心に御殿を配し、稲荷社鬼門の方角に配された。西側には馬場などがあったが、後述の焼き討ちで焼失してしまった。

慶応3年(1867年)秋頃から冬にかけ、関東では勤王のためと称し薩摩藩士ら中心による集団強盗が横行、愛甲地区も被害が多数出ていた 12月15日、江戸薩摩藩邸に集まった(鯉渕四郎)ら薩摩藩士中心の倒幕派浪士隊は、山中藩主が甲府城勤番のため留守であった山中陣屋を夜襲、焼き討ちした。その際即死3人、深手を負った2名の内当代官が3日後死去、さらに12月16日早朝、集団は厚木川入村の佐野家へ押し入り金品を強奪し、津久井方面へ向かうなど藩と領民に衝撃を与える。

1871年(明治4年)に荻野山中県が廃止された後に、陣屋跡の一部は民間に払い下げられた。残地は官地となったが、それも1932年(昭和7年)には払い下げられることになった(その際に、史跡を記念して「山中城址」碑が建立された)。なお、碑がたっている一角は長屋跡である。

厚木市は、1970年(昭和45年)に跡地を史跡に指定した。その後、発掘調査により、建物の位置などが確認された。跡地のうち3300平方メートルが「山中陣屋跡史跡公園」として整備され、1996年(平成8年)に開園となった。同公園は、地下の史跡を保護するために盛り土が行われ、地上の構造物は最小限にとどめられている。また、稲荷社や湧水が同位置に残されている。

なお、陣屋は焼き討ちにあったにもかかわらず、厚木市王子の曹洞宗(福伝寺)に陣屋裏門と伝わる山門が残る。ただし、1989年(平成元年)に大改修が行われており、屋根は銅板葺きである。

アクセス

福伝寺
小田急電鉄小田原線本厚木駅下車、厚木バスセンター・本厚木駅より神奈川中央交通東バス(厚95系統)王子行きにて王子入口バス停下車または、(厚25系統)緑ヶ丘行きで緑ヶ丘バス停下車徒歩約10分。
荻野山中陣屋
本厚木駅下車、厚木バスセンター・本厚木駅より神奈川中央交通東バスにて(厚01-07・10-12・89・94の各系統)荻野新宿バス停下車。なお、厚01-06・12・94の各系統であれば桝割で下車する方が近い。
近隣には山中陣屋跡公園前バス停も存在するが、平日の通勤時間帯のみ運行される急行バスしか停車しない。

座標: 北緯35度28分49.6秒 東経139度19分57.7秒 / 北緯35.480444度 東経139.332694度 / 35.480444; 139.332694

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