荻原 昌勝(おぎわら まさかつ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。(甲斐武田氏)の家臣。武田氏の侍大将8人のうちの1人とされ、武田二十四将の1人とする異説もある。「昌勝」の名は『(武田三代軍記)』で、『甲斐国志』所引の荻原家説では「勝政」とされるが、共に史料からは確認されない。
略歴
『甲斐国志』では父を(荻原備中守)としているが、世代が逆である可能性が指摘されている。室は飯富虎昌・山県昌景兄弟の伯母とされるが、この説も世代的な問題点が指摘される。
主君・武田信昌の一字を拝領したと言われている。『甲陽軍鑑』によれば、信虎に弓術を教え、信虎の嫡男・晴信にも弓矢の物語を聞かせたという。信虎が当主となると家老に任じられた。大永元年(1521年)に今川氏が甲斐府中へ侵攻した(飯田河原の戦い)では信虎の軍師として出陣し、今川氏撃退の策を練ったという。晩年には信虎の嫡男・晴信の教育にもあたった。
その活躍は『甲陽軍鑑』の記事に拠るが、荻原氏は甲斐国山梨郡荻原[1]の国境秩父口の防備を勤めた一族で、その子孫とされる家が武田信玄に仕え、武田氏の滅亡後の天正10年(1582年)には荻原昌之が徳川家康から荻原本領を安堵され[2]。その家系は後に江戸幕府の旗本となって、関ヶ原の戦いに参陣している。
『甲斐国志』では甲州市塩山小屋敷の恵林寺に「追福の碑」があったと記しており、享年を75、法名を「天真院功厳元忠居士」としている。