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草刈景継

草苅 景継(くさかり かげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。(草苅氏)は美作国苫田郡高山城を本拠とする国人で、毛利氏に属する。父は草苅衡継、異母弟に重継

 
草苅景継
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正3年4月27日1575年6月5日
別名 通称:三郎左衛門尉
戒名 天心智観大居士
墓所 岡山県津山市加茂町山下の葵谷
主君 草刈衡継毛利隆元輝元
氏族 藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流 (草苅氏)
父母 父:草苅衡継、母:(黒岩吉弘)の娘
兄弟 景継重継、(重久)、女((三吉隆勝)室)、女((草苅盛雅)室)、女((小瀬広勝)室)
(安東治部大輔)の娘
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生涯

毛利氏麾下での活躍

美作国国人草苅衡継の長男として生まれ、祖父の(草苅伊賀守景継)と同じく「景継」と名乗る。

永禄2年(1559年)に父の衡継が隠居し、家督を相続した。景継は家督相続の御礼として将軍足利義輝正宗太刀一振、信国の刀、一疋を献上し、同年12月5日に義輝の御内書と(上野信恵)の礼状を送られている[1][2]

永禄6年(1563年)、毛利元就が(出雲攻め)において出雲国洗合城に在陣して尼子義久月山富田城を取り囲んでいた際、景継は因幡国智頭郡の(唐櫃城)へ出陣して国境を固め、因幡国と但馬国尼子氏に味方する者が月山富田城へ兵糧を送るのを阻止した。景継はこの事を元就に注進し、元就は8月10日に返書を出して景継の働きに感謝の意を表した[3][4]

永禄10年(1567年)から永禄11年(1568年)にかけて吉川元春小早川隆景伊予国へ出陣すると景継も従軍し(毛利氏の伊予出兵)、永禄12年(1569年)5月の立花城の戦い多々良浜の戦いにも加わった[3]。同年6月に尼子勝久山中幸盛ら尼子再興軍が隠岐国から出雲国へ侵攻(尼子再興軍の雲州侵攻)し、これに呼応して蜂起した尼子氏の残党が因幡国と美作国へ侵入。景継不在の高山城も攻撃を受けたが、留守居の家臣が防いだ。景継は北九州から急ぎ帰国し、攻め来る尼子氏残党を鎮圧した[3]

元亀元年(1570年)、景継は所領に関することで因幡国武田高信と交戦したが、いずれも毛利方に属する国人である両者が争うこと憂えた元就の調停によって和睦した。しかし、足利義昭が備前隣国の諸勢力に浦上宗景討伐を命じると景継は直ちに応じ、宇喜多直家別所安治らと示し合わせて浦上宗景と戦ったが、再び元就の調停によって浦上氏と和睦した。景継は義昭に美作周辺の情勢を注進し、一方で上野信恵から姉川の戦いなどの近畿の情勢を教わっている[5]。また、同年に足利義昭から三番加番の御内書を送られた[6][7]

浦上宗景との和睦後も義昭は重ねて浦上氏討伐を命じていたが、浦上宗景は別所氏の居城である三木城を攻撃。元亀3年(1572年)に輝元は浦上宗景と宇喜多直家を攻撃し、景継は毛利氏に協力して因幡国と伯耆国の諸将と共に美作国から浦上・宇喜多両氏に圧迫した。しかし、同じ頃に武田高信とも再び争ったため、かつての元就の調停を蔑ろにする景継は毛利氏に対して逆心を抱いているとの雑説が流れたが、景継は聊かも毛利氏に対して別心無き旨を言上してより一層毛利氏への忠節に励んだため、輝元は同年8月14日に書状を景継へ送って、景継の忠義を忘却せず長久に申談すべきことを誓い、太刀一腰と銀子50枚を贈った[3][8]

天正元年(1573年)3月頃、尼子勝久山中幸盛ら尼子再興軍が再び挙兵し、因幡国へ侵攻した。景継は因幡国にも所領を有していたため、尼子軍に対して頑強に抵抗し、輝元へ因幡国の情勢を報告して援軍を要請した。8月12日に輝元は景継へ返書を送って油断無く加勢を送ると答えると共に、景継が数年来毛利氏に昵懇であるために、特に近頃の働きを頼もしく思っていると述べている[3][9]

天正2年(1574年)、景継は小早川隆景のもとへ使者を派遣し、因幡の事については今後とも一層奔走すべきことを申し出た。隆景は2月13日に景継へ返書を出し、同時に輝元も(蔵田元貞)を使者として派遣した[10]。このように、天正2年初め頃までの景継は毛利氏に対する忠節に励んでいた[11]

織田氏内通と粛清

しかし、景継には毛利氏に対して不満を抱いていた。先述の通り、元亀元年(1570年)に景継は武田高信と争い元就の調停によって和睦しているが、草苅氏と(因幡武田氏)との不仲は景継の父・衡継がかつて因幡武田氏の所領であった因幡国岩井郡を攻め取ったことに起因しており、和睦に際して輝元は武田高信の懇請を容れて景継に因幡国岩井郡を武田高信へ還付させようとした。景継は断ったが、それでも輝元が武田高信へ所領を与える内意であったことに不満を抱いた。毛利氏に不満を抱いた景継に着目した織田信長は、山中幸盛や蜂須賀正勝を介して調略を行った。なお、宇喜多直家と手を結んだ毛利氏に不満を抱いた三村元親が織田氏からの調略を受けて毛利氏から離反したのも同時期のことである[11]

景継はこの調略に応じ、信長は天正3年(1575年3月22日付で景継への恩賞を約束する朱印状[12]を、大谷慶松(大谷吉継か)に持たせて景継のもとへ送った。しかし、美作国(月田城)主の楢崎元兼が預かり守っていた因幡国内の闕所において、山伏姿で通行していた大谷慶松が捕らえられ、懐中に所持していた信長の朱印状から景継の逆意が明らかとなった。

楢崎元兼から報告を受けた小早川隆景は草苅氏家臣を数名招致し、景継の逆意が明らかとなったからには兵を差し向けて草苅氏を討ち滅ぼすべきであるが、景継の父・衡継の毛利氏に対する忠誠に免じ、景継が切腹すれば草苅氏の家門は存続すると申し渡した。家臣等はこれを拝承して帰城し、草苅氏滅亡となるよりは景継の切腹によって草苅氏存続を図るべきであると景継を説得。景継は止む無くこれに応じて同年4月27日切腹し、信長や山中幸盛らによる草苅氏調略は失敗に終わる事となった[13]

景継の死後は隆景の斡旋により、景継の弟の重継が後を継いだ[13]

脚注

  1. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第56号、永禄2年比定12月5日付 草苅景継宛て足利義輝御内書。
  2. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第57号、永禄2年比定12月5日付 草苅景継宛て上野信恵書状。
  3. ^ a b c d e 『毛利輝元卿伝』p.73。
  4. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第1号、永禄6年比定8月10日付 草苅景継宛て毛利元就書状
  5. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第2号、元亀元年比定10月22日付 草苅景継宛て上野信恵書状。
  6. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第58号、元亀元年比定4月3日付 草苅景継宛て足利義昭御内書。
  7. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第59号、元亀元年比定4月3日付 草苅景継宛て上野信恵書状。
  8. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第3号、元亀3年比定8月14日付 草苅景継宛て毛利輝元書状。
  9. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第5号、天正元年比定8月12日付 草苅景継宛て毛利輝元書状。
  10. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第4号、天正2年比定2月13日付 草苅景継宛て小早川隆景書状。
  11. ^ a b 『毛利輝元卿伝』p.74。
  12. ^ 『閥閲録』巻34「草苅太郎左衛門」第6号、天正3年比定3月22日付 草苅景継宛て織田信長朱印状。
  13. ^ a b 『毛利輝元卿伝』p.75。

参考文献

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