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生涯
詳細な事跡は不明であるが、苻健の時代に太尉司馬・隴東郡太守・建節将軍を歴任し、潁川王に封じられている。
355年6月、苻健が没すると子の苻生が後を継いだが、彼は残忍にして暴虐な人物であり、いつも遊び呆けては酒を飲み、官吏・女官などの殺戮を繰り返していた。経緯は不明だが、苻敞もまた彼によって殺害されたという。
357年6月、苻堅が天王位に即くと苻敞の名誉は回復され、右将軍・涼州刺史が追贈された。また、長男の(苻同成)が家督を継いだ。
後に苻堅とその後を継いだ苻丕が相次いで殺害されるに及び、苻登は皇帝に擁立された。