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英宗 (明)

英宗(えいそう)は、明朝の第6代、第8代皇帝。明の皇帝は一世一元の制があるため、日本では元号を冠して呼ぶのが習いであるが(永楽帝など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため廟号で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて正統帝天順帝と呼ぶ場合もある。土木の変でモンゴルの捕虜となった。中国統一王朝の皇帝の中で唯一、野戦で捕虜となった皇帝である。

正統帝/天順帝 朱祁鎮
第6代/第8代皇帝
王朝
在位期間 宣徳10年1月10日 - 正統14年8月15日
1435年2月7日 - 1449年9月1日
天順元年1月17日 - 天順8年1月17日
1457年2月11日 - 1464年2月23日
都城 北京
姓・諱 朱祁鎮
諡号 法天立道仁明誠敬昭文憲武至徳広孝睿皇帝(睿帝)
廟号 英宗
生年 宣徳2年11月11日
1427年11月29日
没年 天順8年1月17日
1464年2月23日
宣徳帝
孝恭章皇后孫氏
后妃 孝荘睿皇后銭氏
陵墓 裕陵
年号 正統1436年 - 1449年
天順1457年 - 1464年

生涯

皇帝即位

 
明英宗朝服像

第5代皇帝の宣宗宣徳帝の長男として生まれる。宣徳3年(1428年)に皇太子に冊立された。

宣徳10年(1435年)、父帝の死去により9歳で皇帝に即位する。治世初期は太皇太后(祖父の洪熙帝の皇后)張氏や、父帝の遺臣であり一般に三楊と称される楊士奇らの有能な官僚の輔政により政局は安定したが、成人した頃には彼らが死去したり隠退したりしたため、皇帝の家庭教師であった宦官王振の専横を許すことになった。王振は蓄財を目的に自宮(自ら去勢)して宦官となった人物であり、政治に対する理念に乏しく、権勢と蓄財に邁進する性格であった。この王振の専横により国政は弛緩し、国内では社会不安が高まって(思任発)や(鄧茂七)らの反乱が勃発し、明朝の混乱に乗じ北方のオイラトはしばしば長城を越えて侵入して来た。

土木の変

この時期のオイラトは、エセンが出現したことで分裂していた部族を統合し強大な国家へ成長していた。一方の大明帝国は正統帝の統治に因って政治行政の腐敗と軍紀の頽廃が酷い惨状に陥っており農民反乱が頻発していた、侵攻の好機と見たオイラトが有利な条件での朝貢貿易再開を要求するも明朝廷が拒絶した為、エセンは明領での略奪を繰り返した。

正統14年(1449年)、王振はエセン征伐のため正統帝に親征を要請、朝廷内の反対を押し切り、行軍の規模を誇示するために、従軍経験の無い大量の文官や権貴子弟も含めた50万の軍勢による北方攻撃に着手した。親征軍が北京を出立し大同まで迷走を続ける間に早くも食糧が不足、大同に到着した時点で再び朝臣は親征中止を進言するが正統帝王振は受け容れず北進を開始する。王振の派遣した分遣隊が各地で続々と壊滅した報告を受け敵軍を恐れて逃走を始める。北京までの行軍中20里先の懐来城への入城を急がず、王振の私物を積んだ輸送車を待つために、諸将の進言を受容れず防壁も井戸も無い土木堡で野営した。エセン率いる軍勢が到着したため親征軍は撤退を中止、その間に周囲の拠点を攻略され親征軍は飲料水の無い状況でオイラト軍の包囲下に置かれた。オイラトへ寝返る部隊まで出たのを機に敵軍が攻撃を開始すると親征軍は壊滅、多数の政府高官が戦死し正統帝はオイラトの捕虜となった(土木の変)。

皇帝捕虜の知らせを受けた朝廷では、南京への遷都も検討されていたが、于謙の反対で北京に留まり、皇弟の朱祁鈺が即位した(景泰帝)。于謙は石亨らと協力して、兵力を北京とその周辺地域に集中して軍備を強化し、また災難を引き起こした王振派を粛清して士気を高め、オイラトの攻撃から北京を防衛した。景泰元年(1450年)に両者間で講和が成立し、正統帝も明朝に送還されて軟禁され太上皇となった。

奪門の変

上皇となった正統帝は政治的影響力を失い、事実上の軟禁状態に置かれた。景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に徐有貞や石亨、曹吉祥らによって政変が発生し復位した。于謙らの重臣を殺害し、景泰帝も同年に死亡(病気が回復した後、公記録が残されない原因により死亡)した事により復辟(天順)した。

復辟後

奪門の変を成功させた石亨と曹吉祥の一派はその後、その功を笠に着て傍若無人に振舞い「曹石」と呼ばれ嫌悪された。後に同じくクーデターを主謀した徐有貞と仲違いし、徐有貞派の讒言により、天順帝は天順3年(1459年)に石亨を親族の罪に連座させる形で失脚させ、罪を認め無い石亨を翌年の拘留中の拷問により殺害した。曹吉祥の甥の曹欽が天順5年(1461年)にクーデターを起こすが失敗、曹欽は自殺し曹吉祥も死罪とした。

天順8年(1464年)、38歳で死去した。跡を子の朱見深(成化帝)が継いだ。

人物

  • 暗愚、無能。阿諛追従するだけの無能な奸臣を重用して多数の功臣を理由無く処刑し、正統年間天順年間共に農民蜂起が多発している。奪門の変では柱石の于謙を処刑し、土木の変での行動の数々は無様の一言である。
  • 天順年間、彼は行政に勤勉で、優れた政治家である李賢に大きな信頼を寄せていました。
  • 建文帝の遺児で、永楽帝に50年以上監禁されていた朱文圭を釈放した、崩御時の殉葬の禁止など、評価すべき点もある。
  • 于謙を処刑したことを最後まで悔いていたという。後に成化帝の代に于謙の名誉は回復された。

宗室

后妃

  • 正室:銭皇后(孝荘睿皇后)
  • 側室:周貴妃(孝粛皇后)
  • 宸妃万氏、恵妃王氏、淑妃高氏、徳妃魏氏、順妃樊氏、安妃楊氏、賢妃王氏、敬妃劉氏、麗妃劉氏、昭妃武氏、和妃宮氏、恭妃劉氏、賢妃李氏、荘妃趙氏、成妃張氏、充妃余氏、麗妃陳氏、貞妃王氏

男子

  • 成化帝 朱見深 - 母は孝粛皇后。
  • 徳荘王 朱見潾 - 母は宸妃万氏。
  • (朱見湜) - 夭折。母は宸妃万氏。
  • 許悼王 (朱見淳) - 母は恵妃王氏。
  • 秀懐王 (朱見澍) - 母は淑妃高氏。
  • 崇簡王 (朱見沢) - 母は貴妃周氏。
  • 吉簡王 (朱見浚) - 母は宸妃万氏。
  • 忻穆王 (朱見治) - 母は宸妃万氏。
  • 徽荘王 (朱見沛) - 母は徳妃魏氏。

女子

  • 皇女[1] - 夭折。
  • 重慶公主 - 母は孝粛皇后。
  • 嘉善公主 - 母は恵妃王氏。
  • 淳安公主 - 母は宸妃万氏。
  • 崇徳公主 - 母は安妃楊氏。
  • 広徳公主 朱延祥[2] - 母は宸妃万氏。
  • 宜興公主 - 母は徳妃魏氏。
  • 隆慶公主 - 母は淑妃高氏。
  • 嘉祥公主 - 母は麗妃劉氏。
  • 皇女[1] - 夭折。母は順妃樊氏。
  • 皇女[1] - 夭折。母は徳妃魏氏。

伝記

  • 川越泰博『モンゴルに拉致された中国皇帝 明 英宗の数奇なる運命』(研文出版〈研文選書88〉)
  • 趙毅、羅冬陽,《明英宗傳》,北京市,人民出版社,2019年7月。

登場作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ a b c 『明英宗実録』
  2. ^ 『広徳長公主墓志銘』
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