解説
「刀伊の入寇」を撃退するのに活躍した大宰権帥藤原隆家の曾孫とされる肥後守・(文貞(文定))のとき高木氏を称する。庶家は菊池氏、於保氏、龍造寺氏、(上妻氏)、(赤司氏)、(肥前井上氏)、(草野氏)(嵯峨源氏出自説もあり)などのの諸氏が分出したと伝わる。
宗家は源平合戦に際しで源氏方に立ち、文治二年(1186)8月、源頼朝から本領の佐嘉郡深溝北郷内甘南備の地頭職に補任され、御家人となる。鎌倉時代には肥前国一宮の(河上社)の大宮司職を相伝し、免田の給主として、神事や造営に努めた。勢力が拡大するにつれて、同社座主職との対立が激しくなったと伝える。
高木氏はこの地方で有力であったため、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての使節としての史料が多く、公的立場で所両の遵請行に関与していたことが見て取れる。河上社大宮司としては南北朝時代中期までで、それ以後、大宮司職は千葉氏(東国御家人系)によって代わられたため一在地領主となり、その勢力は衰退していった。
脚注
- ^ “中世”. 佐賀市公式ホームページ. 2020年2月25日閲覧。