耶律 淳(やりつ じゅん)は、北遼の初代皇帝。契丹名は涅里(ネリ)。興宗の次男の宋魏王(和魯斡)の子。文学に長じて巧みだった。
生涯
伯父の道宗に可愛がられ、燕王に冊封された。道宗の皇太子で従兄の章懐太子耶魯斡が、宗室の(耶律乙辛)の讒言で21歳で非業の死を遂げた。わが子を失った道宗は甥の涅里を皇太甥に考えていたが、臣下の諫めでとどまり、孫の阿果(天祚帝)を皇太孫に定めた。
従子の天祚帝が即位すると鄭王・彰聖軍節度使に任ぜられ、後に越王・南府宰相となった。父が死去すると、南京留守の職を世襲した。
天慶5年(1115年)、天祚帝が金の太祖に入来山で大敗し、長春に逃れた。そのとき、宗室の御営副都統の(耶律章奴)らはかつての道宗の皇太甥だった涅里の擁立を目論んだ。しかし、涅里は耶律章奴の使者を斬首し、わざわざ長春に赴いて天祚帝に謁見したため、天祚帝から感謝され秦晋王に冊封され、都元帥に任じられた。間もなく首謀者の耶律章奴らは処刑された。
涅里は金と対峙するため、燕雲十六州で数千人を統率しこれを迎え撃ったが、大敗し南京(燕京、現在の北京)に逃れた。保大2年(1122年)2月、天祚帝が再び金の太祖に大敗し、雲中(現在の山西省大同市)の陰山に逃亡してしまった。そこで、宗族の耶律大石と宰相の李処温らは、3月にあまり乗り気ではない涅里を擁立し、さらに李処温の子の(李奭)が皇帝の衣装の黄袍を用意していたため、涅里は成り行きで即位させられた。また耶律大石らは勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。涅里の国は後世では北遼と呼ばれる。しかし、同年の6月24日に崩御した。享年61。
宗室
后妃
- 徳妃 蕭普賢女
子女
- 不詳
脚注
伝記資料
- 『遼史』巻三十