生涯
習珍は若い頃から劉備に追随して功績を重ね、赤壁の戦い後に劉備が荊州南部四郡[1]を占領した時に、習珍は零陵北部都尉・裨将軍に任じられた。
建安24年(219年)、関羽の北伐で荊州が手薄になった隙に、孫権は呂蒙に命じて荊州を襲撃し占領し、関羽は捕えられて処刑され、荊州の南郡・零陵郡・武陵郡の各郡も孫権に降った。しかし習珍だけは固く城を守り降らず、屯所の零陵で呉の軍を迎撃した。しかし習珍は弟の習宏の諫言を入れて、身を屈して孫権に降り、零陵を後にした。習珍は密かに武陵従事の樊伷[2]と結び、反乱して蜀へ帰順する計画を立てたが、計画は漏れた。そこで習珍は反乱を起こしたが孫権の派遣した兵に敗れ、逃走し所轄の7県の兵を徴発し劉備に帰属し、昭陵太守[3]を自称し、異民族の土地に駐屯して蜀に味方した。
劉備が夷陵の戦いにて敗れると、零陵郡・桂陽郡の諸郡は習珍の反乱もあって動揺していたが、至る所で反乱兵は防がれ、歩騭が反乱を討伐して、すべて平定された。
孫権は潘濬に習珍を討伐させ、潘濬は兵を率いて反乱地域へ来攻し、樊伷を斬った。反乱はほぼ鎮圧され、潘濬は習珍に使者を派遣して投降を勧めた。習珍は大義のために凜然と言った。「私は蜀漢の鬼になろうと、呉の臣にはならぬ」潘濬は1月あまり包囲した後、食料が尽き援軍が来ないのを悟り、習珍は自殺した。
劉備は習珍が敗れて死んだことを知ると、喪を発し、習珍に昭陵太守を追贈したという[4]。
一族
- (習宏) - 習珍の弟。呉に仕える。
- 習温 - 習珍の子。呉の荊州大中正。
- (習宇) - 習温の子。呉の執法郎。