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織田 秀綿(おだ ひでつら)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。大和国柳本藩の第10代藩主。官位は従五位下・(筑前守)、(大和守)。尚長流織田家10代。
生涯
8代藩主・織田秀賢の三男として誕生。幼名は富十郎。幕府には9代藩主・織田長恒の長男と届けられた。
明和3年(1766年)10月16日、長恒が死去したため、家督を相続した。明和8年(1771年)7月28日、10代将軍・徳川家治に御目見する。安永元年(1772年)江戸火消役を命じられる。安永3年(1774年)12月18日、従五位下筑前守に叙任する。安永5年(1776年)、(駿府加番)を命じられる。安永8年(1779年)5月、鎌倉を訪れて、織田長好の建立した建長寺長好庵などを参詣する。明和6年(1769年)1月15日、柳本領内で百姓一揆が起こり、12名の百姓を処罰した。享和2年(1802年)12月にも年貢軽減を求めて農民が柳本陣屋に押し寄せ、藩側の発砲で死傷者を出した。
系譜
子女は8男8女。