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織田 信右(おだ のぶすけ)は、江戸時代中期の大名。上野国小幡藩5代藩主。通称は左膳。官位は従四位下・(若狭守)、兵部大輔。
生涯
4代藩主・織田信就の四男として誕生。初名は長賢。
信就の四男であったが、長兄・信房、次いで三兄・信乗が病気を理由に廃嫡され、次兄・信常も多病で相続を辞したため、享保15年(1730年)10月16日に嫡子になった。同年11月15日、8代将軍・徳川吉宗に御目見し、12月18日従五位下若狭守に叙任する。後に従四位下に昇進する。
享保16年(1731年)7月28日、父の死去により家督を継ぐ。享保18年(1733年)6月13日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。延享2年(1745年)3月15日、紅葉山八講会の予参を務める。なお、藩主を継いだ頃から信右もまた病気がちとなり、藩政を家臣任せでほとんど隠居に等しかった。また、当時の藩財政は収入よりも支出が大きく上回り、宝暦7年(1757年)には江戸表の上屋敷が焼失するという災難もあった。このような中、信右は病を理由に宝暦9年(1759年)11月11日、家督を養子とした弟・信富に譲って隠居し、宝暦12年(1762年)8月18日、死去。享年50。
系譜
子女は2男2女。「御代々様・御連枝様方御事跡」によると長女・呉姫は織田信乗の養女となった。
父母
- 織田信就(父)
正室
- 松平頼明の長女後に離縁
子女
養子
- 織田信富 ー 実弟