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織田 久長(おだ ひさなが)は、室町時代の武将。通称は弾正左衛門。官位は従五位下・(大和守)、近江守、兵庫助。清洲三奉行の一家・(藤左衛門家(小田井織田氏))の祖とされる。尾張国楽田城主。法名は常祐。
略歴
(織田勝久)または織田常松・織田常竹の子として誕生。正室は朝倉教景の娘。
郷土史家の横山住雄は、朝倉教景の娘に「織田弾正忠久長室」とあり、「弾正忠」の官位が見えることから、織田良信の父であるという説を唱えたが、現時点では「弾正忠久長」による発給文書がないため推測の域を出ない。
文安5年(1448年)、『(妙興寺文書)』の「(天祥庵規式案)」によると条文に「織田兵庫助久長」とある[4]。