細川 通政(ほそかわ みちまさ)は、戦国時代の武士。細川政春の子。(細川野州家)6代当主。後に室町幕府13代将軍・足利義輝から偏諱を授与されて輝政(てるまさ)と改名[注釈 1]。また、後述のように架空の人物説も出されている。
略歴
天文5年(1536年)、野州家を継いでその当主であった次兄(一説に甥(高国の子)とも)の晴国が摂津天王寺で戦死したことにより、野州家を継いだ。この時に通政が晴国から継承したのは、「長府細川系図」によれば、備中一国・伊予国の内から宇摩・温泉の二郡であるという。
翌天文6年(1537年)7月3日に、高国の養子・細川氏綱が通政の家督継承を認めるようにとの通董(晴国の子)へ宛書状を発したといい、同年に通董は伊予国温泉郡松山城から同国宇摩郡川之江城に移っている。ただし、この書状の年代比定について、細川氏綱が改名によって「氏綱」を称したのは天文12年(1543年)であるために天文6年の文書ではなく同年以降の文書であるとする説もある[注釈 2][1]。
天文21年(1552年)に足利義輝から屋形号を賜った。
翌天文22年(1553年)、松山城にて50歳で死去、跡は猶子となっていた通董が継いだ。
晴国と通政の備中一国という記述は、永正12年(1515年)に、父・政春が備中守護職に補任されたことによるのだろう。そもそも備中国には(備中守護家)があったのだが、延徳3年(1491年)から4年(1492年)の(庄元資)との戦いで力を失っていった。これに京兆家を継いだ高国は、庄家の自立化や敵対する細川澄元・晴元の実家である(阿波守護家)の影響力に対抗して、備中国浅口郡を知行していた野州家の政春を守護に任じた。しかし、これは政春の死去で頓挫したのだという。
なお、近年馬部隆弘は細川晴国の誕生が永正13年(1516年)であることを明らかにした上で、その翌年に病で倒れて永正15年(1518年)初めに没した政春には晴国の弟を作る時間的余裕はないとして、細川通政(輝政)は細川通董の子孫である長府細川家が自己が野州家の直系であることを示すために創作した架空の人物であるとしている(馬部は通董は細川氏の一族であるが晴国の没後に傍流から立てられた人物と推定している)[2]。
系譜
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
- (庄氏(戦国時代))
房前~始まる藤原近衛安芸一条家系図・毛利家細川系図に、細川道政は嚴島二重塔即身成仏「雲慶宗譽」である(毛利家上卿祝師家老細川織部) 細川道政は朝廷中務省正四位 上卿神主祝師太夫・為に藤原荘園に下剋し、細川道政。土佐一条から安芸国佐伯庄毛保一条邸嚴島に在居。