粟屋 元貞(あわや もとさだ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。毛利氏の譜代家臣で長州藩士。知行は1600石。父は(粟屋元利)。父の兄である粟屋元種の養子となる。
生涯
永禄6年(1563年)、毛利氏の譜代家臣である(粟屋元利)の次男として生まれ、毛利輝元、秀就の二代に仕えた。
天正8年(1580年)4月14日、元貞の伯父である粟屋元種の嫡男・元信が輝元の備中出陣において先鋒部隊の将を務めたが、備中国下加茂の山中において伊賀久隆の強襲を受け戦死した。元信の戦死によって元種の後継がいなくなったため、元貞が元種の養子となって家督を相続した。
天正16年(1588年)、毛利輝元に従って上洛し、同年7月26日に従五位下・右近大夫に任官[1]し、豊臣姓を与えられる。また、慶長6年(1601年)5月8日に輝元から「九郎右衛門尉」の官途名を与えられ、慶長17年(1612年)11月9日には秀就から「肥後守」の受領名を与えられた。
寛永2年(1625年)8月13日の御配所付立によると、周防国熊毛郡大河内村1400石と長門国大津郡日置村の内の200石、合計1600石が元貞に与えられている。
脚注
参考文献
- 『萩藩閥閲録』巻9「粟屋帯刀」