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米倉 昌寿(よねくら まさなが)は、江戸時代後期の大名。武蔵国金沢藩7代藩主。六浦藩米倉家10代。官位は従五位下・(丹後守)。
略歴
寛政5年(1793年)1月11日、丹波国福知山藩8代藩主・朽木昌綱の三男として誕生。文化9年(1812年)6月10日、6代藩主・米倉昌俊が死去したため、その養子として家督を継いだ。同年6月13日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。
一橋門番や馬場先門番、和田倉門番、田安門番、竹橋門番などを歴任し、天保7年(1836年)11月に大坂京橋口定番となるが、天保9年(1838年)に不手際を起こして処罰されている。安政4年(1857年)閏5月1日、奏者番に就任する。万延元年(1860年)6月24日に六男・昌言に家督を譲って隠居した。
系譜
父母
正室、継室
子女
- 朽木紘綱[1](五男)
- 米倉昌言(六男)生母は演暢院(継室)
- (池田頼誠)[2](七男)
- (米倉昌慧)
- 安部信発[3](九男)
- (米倉正直)
- (米倉昌邦)
- 本多助実継室、生母は円成院(正室)
- 米倉恒子 ー 朽木為綱正室