生涯
永禄5年(1562年)3月、主君・三好実休が久米田の戦いにおいて戦死すると、出家して「自遁」と名乗り、実休の子・三好長治を重臣として補佐した[1]。
元亀4年(1573年)、主君・三好長治の生母・小少将と通じたことを兄とされる篠原長房に咎められると、長治に長房を讒言してこれを攻め滅ぼさせた(上桜城の戦い)。
天正6年(1578年)に十河存保の三好氏相続に反対した為、合戦となったが敗れ、その後存保の勝瑞城入城の先導役となる。
その後、天正10年(1582年)の長宗我部元親による阿波攻めでは十河側についたが、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参戦しなかった。長宗我部方に服さず抵抗していたが、唯一の頼みであった織田信長が本能寺で討たれたことを聞くと、木津城を開けて淡路へ落ち延びた。
参考文献
- 『日本城郭大系 第15巻』新人物往来社、1979年
- ^ 『三好記』