信国派(のぶくには)は延文(1356年)頃から明治まで全国展開した刀工の流派。応永頃までは京で、永享12年(1440年)頃から慶長7年(1602年)までは豊前で、慶長頃から明治までは筑前ほか、筑後、豊後、肥後などで活躍し、九州の信国を筑紫信国という。分流として貞治から永享頃(1362年-1440年)の越後の山村派や、天和(1681年)頃から明治までの(南部信国)がある。
山城信国派
初代信国は、元応2年(1320年)頃、(了戒)の弟子となり、数十年後、京五条坊門で「信國」と銘を切った[1]。延文3年(1358年)、貞治3年(1364年)の在銘刀などがある。(二代目信国)を経て、(応永信国)((三代目信国)((源左衛門尉信国)か)や(源式部丞信国)など)が活躍した。明徳元年(1390年)(熊野速玉神社)奉納の(金銅荘烏頸太刀)の銘に「源信國 貞光 信清 信貞 貞次」も知られる[2]。
特徴
来国俊様式(直刃)と相州貞宗様式(湾れ刃)の二通りの作風だが、梵字、蓮台、(倶利迦羅)など、濃厚な刀身彫が代々上手である。貞宗の在銘刀がなく、信国より古様で上手を貞宗、と極める通例がある。
豊前信国派
三代目信国の次男(信国吉家)は宇佐の(安心院吉門)に永享12年(1440年)に仕えた[3]。以降八代、安心院に仕えた[4]。安心院が大友宗麟に滅ぼされた天正10年(1582年)以降、筑前ほかへ移住した。
筑前信国派
初代信国より十二代信国吉貞は安心院滅亡後細川忠興に仕官を迫られたが、慶長7年(1602年)、筑前へ移住し黒田長政に仕えた[5]。長男の信国吉政は備前伝を受け、次男(信国吉次)が家を継ぐ。主な刀工は以下の通り。
越後山村派
初代信国の弟と伝えられる(信国源五郎)が越後の豪族山村正信に仕え鍛刀を指導。山村正信の子安信が応永頃信国と改銘。
南部信国派
(二代目信国吉政)の次男新藤次郎兵衛が南部重信に延宝頃(1673-80年)仕え(南部国義)と称される。長男新藤平四郎も元禄頃 南部行信に仕え、(南部信国)と称される[6]。 南部国義の八代目は「一心斎義国」と銘を切り大正2年(1913年)没。