竹迫城(たかばじょう)は、現在の熊本県合志市上庄にある日本の城跡。合志城とも呼ばれ、その他に蛇尾城・穴の城・上庄城の別名もある。合志市指定史跡[1]。また、城絵図が合志市指定有形文化財に指定されている[2]。
概要
鎌倉時代初期から戦国時代末期までの約400年間、肥後国合志郡における政治・軍事の中心であった。築城から戦国時代初期までを(竹迫氏)、それ以降は(合志氏)が居城とする。川沿いの丘陵を利用して造られた中世様式の城で、土塁と空堀によって郭が形成されており石垣は見られない。城の縄張りは東西1800メートル×南北1400メートルとされる。中央の最高所に位置する本丸跡は楕円形(50メートル×30メートル)の平坦地となっている。
沿革
- 鎌倉時代はじめの建久年間(1190年 - 1198年) - 合志郡の地頭職に任じられた中原師員(竹迫氏初代・竹迫輝種)によって築城される。
- 1337年(延元2年/建武4年) - 南北朝の争いが九州に及び、北朝方の(合志幸隆)が守る竹迫城を、南朝方の菊池武重が攻める。
- 1510年(永正7年) - 竹迫氏第15代の竹迫公種が豊後へ移転。
- 1511年(永正8年) - 竹迫氏に代わって合志隆岑が城主となる。
- 1551年(天文20年) - 菊池義武に与し大友義鎮の攻撃を受けるも落城せず。
- 1584年(天正12年) - 龍造寺隆信の攻撃を受ける。
- 1585年(天正13年) - 島津氏の侵攻を受ける。新納久饒および川上忠堅の軍勢を(合志隆重)が迎え撃つが敗れて開城。
- 1587年(天正15年) - 豊臣秀吉の九州征伐を受け、薩摩へ撤退する島津氏が城を焼却。
- 1990年(平成2年) - 菊池郡合志町(現・合志市)により公園として整備される。
脚注
関連項目
外部リンク
- 合志市
- 地域発 ふるさとの自然と文化(竹迫城跡) - 熊本県