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生涯
天文年間に父(定珪)が死去したために家督を相続。腹診をよく行ってこれを広めた。元亀2年(1571年)正親町天皇の脈を取り平癒させたため、法眼に叙される。天正9年(1581年)には女官の治療に貢献したことにより法印に昇進する。豊臣秀吉と親交が深く、特に秀吉生母大政所を快癒させた際には多大な恩賞を得ている。その他、曼殊院覚恕、羽柴秀勝、丹羽長秀、顕如などを治療している。文禄2年(1593年)文禄の役講和のために来日した(謝用梓)らが発病した際、処方を行うなど対応して親交を深めた。徳川氏に対しても徳川秀忠の娘の処方を行っている。慶長2年(1597年)秀吉が病床に伏した際、出仕がなかったために罰せられた。慶長5年(1600年)に死去。子孫は豊臣家を離れ、江戸幕府に仕えた。