経歴
明和5年(1768年)、備中国鴨方藩主・池田政方の十男として江戸に生まれた。
天明年間の初め頃、旗本の竹中厚之進が早世した際、公辺内分(幕府に対して無届け)により身代わりとして跡を継ぎ、竹中家に入った[1]。天明3年(1783年)12月7日、徳川家治に拝謁[2]。その後大番頭を務め、従五位下遠江守に叙任された。
文化4年(1807年)8月17日、江戸にて40歳で死去。泉岳寺に葬られた[3]。
相続に関して
元々竹中家には、天明元年(1781年)3月5日に14歳で祖父の(竹中元儔)の跡を継承した厚之進(父:(竹中元恭)(婿養子。下野国壬生藩主鳥居忠意五男)、母:竹中元儔養女((竹中元敏)娘。元儔の妹))がいた[2]。
この厚之進は将軍御目見前に早世してしまった。竹中家のお家断絶を防ぐため、池田家の隆之助が養子に入り、厚之進に成り代わったとみられている[4]。そのため、『寛政重修諸家譜』では元智(重寛)の存在が池田家の系譜に記されておらず、また竹中家の系譜には重寛が養子であるとの記載はない。隆之助が成り代わった時期については明確ではないが、池田家の状況からみて天明元年(1781年)閏5月から天明2年(1782年)4月までの間とみられる[5]。
なお、この内密での相続に関連し、既に幕府に提出されていた「隆之助」(明和2年(1765年)生まれで記載)としての(丈夫届)については、つじつまを合わせるために弟の池田方教に「隆之助」の通称を名乗らせ、方教はその丈夫届に伴って明和2年(1765年)生まれの扱いにされた[6]。
脚注
参考文献
- 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川書店、2004年)