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神保・稲葉夫人

神保・稲葉夫人(じんぼう・いなばふじん、生没年不詳)とは、戦国時代女性。最初は越中守山城神保氏張正室となり、後に離別して、稲葉貞通継室となった。織田信秀の長女とされ[1]、この場合は織田信長の姉となるが、妹とする異説も存在する。戒名は繁渓永昌大姉で、道号は繁渓。

生涯

最初、(領国を追放されて)京都にいた神保氏張に嫁いでいるが、これは信秀か信長の命令によるものかなど、結婚の経緯は定かではない[2]天正3年(1575年)に氏張との間に息子の(氏長)が生まれている[2]。天正6年(1578年)4月、信長は氏張に越中平定のために帰国を命じて、飛騨の姉小路頼綱、北陸を指揮した柴田勝家に協力するように命じている[2]。しかし結局、これに失敗しており、離別を命じられた。

信長の死後、天下の実権を握った豊臣秀吉は、美濃稲葉貞通にこの後家を嫁がせた[2]。貞通の正室は信長の舅・斎藤道三の娘であったが、この頃には死別していたため、秀吉が継室として嫁がせたという[2]。貞通との間には男子が3人、女子が2人生まれている(貞通の嫡子・典通は前正室の斎藤道三娘との間の息子)[2]。この内の1人は江戸幕府旗本となった[2]

岐阜県揖斐郡揖斐川町月桂院に墓がある。

生年について

系図では信長の姉とされているが、信長が天文3年(1534年)生まれであるから、信長より年長ならば最初の氏張の息子でさえ42歳以上と当時としてはかなりの高齢出産をしており、さらに貞通に嫁いで5人も生んだのが50歳代となり、当時としては子供を産む年齢としては考えにくく、信長の妹とする説が有力である[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 西ヶ谷 2000, p.247
  2. ^ a b c d e f g h 西ヶ谷 2000, p.248

参考文献

  • 西ヶ谷恭弘『考証織田信長事典』東京堂出版、2000年、247-248頁。ISBN (4490105509)。 
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