生涯
1910年、東京に生まれる。旧制武蔵高校を経て東京帝国大学に進み、ドイツ法を専攻[1]。1939年の大学卒業後ただちに、地租改正資料整備会委員になる[1]。同年10月から、国際文化振興会で、『英文日本百科事典』の編集に携わる[1]。1941年に社会事業研究所に入所し、1943年から日本敗戦まで、北京近郊河北口の西北研究所員として、モンゴルで調査研究をした[1]。敗戦のためウランバートルで抑留生活を送る[1]。1954年6月16日、東京教育大学文学部助教授から教授に昇進[1]。1954年当時、『思想の科学』理事、「生活を綴る会」の主メンバー、日教組講師団の1人だった[1]。また雑誌『世界』にもよく寄稿していた[1]。
東京教育大学の筑波移転問題では、文学部教授会で、強硬移転反対派に属した。このため筑波大学には移らず、1975年に神奈川大学教授に転じた。
人柄
家族・親族
父は磯野定次郎(台湾銀行常務)、母は松室致の長女 松室千代。安藤良雄は実弟。
海軍少将穂積律之助の娘・富士子と結婚。妻は穂積陳重と穂積歌子の孫、渋沢栄一の曾孫、穂積重遠と穂積真六郎の姪、渋沢敬三の従姪。
ともに西北研究所の所員になり、モンゴルでの調査研究にあたる[2]。その研究成果を『家族制度』(岩波新書)として、1958年に発刊した[2]。
著書
- 磯野富士子との共著『家族制度』岩波新書、1958年
- 共著『嵐の中の百年』
- 共著『日本近代法発達史講座』
- 共著『家族制度の研究 上』