経歴
1947年に京都大学工学部応用化学科を卒業し、同年に阪神電気鉄道に入社[1]。
主に車両部門で務め、1979年6月に取締役に就任し、1982年6月には常務に就任した[1]。
1985年8月12日、運輸省(現・国土交通省)本庁舎で開催された日本民営鉄道協会の会議に私用で出席できなくなった電鉄本社代表取締役社長で阪神タイガース球団オーナーの久万俊二郎の代理として出席した電鉄本社専務取締役でタイガース球団社長の中埜肇に同行し、帰阪の為に搭乗した日本航空123便の墜落事故で中埜と共に犠牲となった[2]。60歳没。
脚注
- ^ a b c 人事興信所 1985, い241頁.
- ^ 1985年 8月17日 日本経済新聞 夕刊 p7
参考文献
- 人事興信所 編『人事興信録 第33版 上』人事興信所、1985年。