略歴
慶長2年(1597年)、徳川家康に初めて拝謁し、翌慶長3年(1598年)に家督を継承して徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに供奉した後、大番となり、(大坂夏の陣)では牧野信成に従って、首級を得た。その後、大番頭となって240石を加増され、武蔵国都筑郡・上野国那波郡・上総国望陀郡・下総国相馬郡において740石を領した。元和6年(1620年)3月18日には目付として(今村正長)と共に出羽国最上に赴いた。寛永10年(1633年)には500石を加増され、1240石を領する。正保2年(1645年)6月23日に職を辞し、同年10月6日に70歳で死去[1]。
脚注
- ^ 寛政重修諸家譜 巻第三百八十六
参考文献
- 寛政重修諸家譜 第2輯(巻第三百八十六)(1923年、国民図書)p.1191