真島 健三郎(ましま けんざぶろう、1873年 - 1941年)は、日本の海軍技師(軍属)。構造エンジニア。日本におけるRC構造の先駆として、また柔構造理論の発案者で大正期に建築構造家佐野利器らとの柔・剛論争でつとに有名。香川県出身。
経歴
1873年(明治6年)、香川県で西条求次郎の三男として生まれ、製紙会社を経営する真島襄一郎の三女をもらい真島家に入る。1896年(明治29年)7月札幌農学校工学科卒業後、ドイツ留学。1899年(明治32年)海軍技師に任用、翌1900年(明治33年)から佐世保鎮守府経理部建築課に勤務。1903年(明治36年)から1904年(明治37年)3月までの半年間、欧米視察[1]。
小野田セメントの協力を得て1901年(明治34年)から1902年(明治35年)にかけて水雷艇船渠築造の主任として、当時まだ採用を危ぶまれていたコンクリート造建物の施工に携わり成功を収める。また1908年(明治41年)繋船堀築造の際には海水に全面が触れるコンクリートを使用し問題ないことを確かめるなど、RC構造技術の先駆者として多くの重要な業績をあげている。
関連項目
脚注
出典
参考文献
- 工学会『明治工業史6 土木篇』工学会明治工業史発行所、1929年。(複製『明治工業史6 土木編』明治百年史叢書第437巻、原書房、1995年)
- 西澤 英和「歴史的建造物-保存・再生・技術の変遷Ⅱ近代技術海軍技師真島健三郎の業績(その1)」『施工 : 建築の技術』414号、彰国社、2000年4月、150頁。