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略歴
母方の伯父である越後国の戦国大名・上杉景勝の養子となり、天正11年(1583年)に上杉義真と名乗った(継嗣扱い)。『上杉家御年譜』によると天正14年(1586年)、豊臣秀吉に人質として送られるが、4年後には上杉家に戻った。
しばらくして、上杉家を出て河内国に住していた実父・義春の許で暮らす。関ヶ原の戦いで父は東軍に属し、兄・長員が1490石の所領を与えられ別家(高家上杉家)を興す。 その後、義真は畠山姓に復し、名実共に(能登畠山氏)の名跡を継承した。
慶長6年(1601年)、徳川家康に拝謁して近侍を始める。元和3年(1617年)には大和国宇智郡に3120石の知行を与えられ上級旗本となった。徳川秀忠に草創期の高家として傍に仕え、江戸城で行われる式典の基礎を築いた。また、景勝の孫・上杉綱勝がわずか8歳で米沢藩3代藩主となると、義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、後見的な役割を果たした。