田口 大戸(たぐち の おおと/おおへ)は、奈良時代の貴族。名は大万戸(おおまと)とも記される。右兵衛率・田口益人の孫で、内掃部正・田口家守の子[1]。官位は従五位上・(上野介)。
経歴
天平勝宝7年(755年)防人部領使として防人を率いて下野国から筑紫へ派遣された際に、兵部少輔・大伴家持に防人歌18首を進上し、うち11首が『万葉集』に採られている。この時の位階は正六位上[2]。
淳仁朝の天平宝字4年(760年)従五位下に叙爵し、天平宝字6年(762年)(日向守)に任官する。天平宝字7年(763年)、笠不破麻呂と官職を交替し、路野上の後任として兵馬正に遷るが、翌天平宝字8年(764年)正月に(上野介)として再び地方官に転じたためか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は不明。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による。