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王有㥄陀

王有㥄陀(おううりょうだ[1]、生没年不詳)は、『日本書紀』によると、554年百済から倭国に貢上されたという医博士[1]。王有㥄陀は、パフラヴィー語の「ワイ・アャーリード(Way-ayarid)」または「ワイ・ヤーリード(Way-yarid)」の(写音)とみられ、百済に寄留していたイラン系胡人かその子孫とみられる[2]

人物

日本書紀』には、513年に百済は五経博士段楊爾を貢したが、3年後に段楊爾を帰国させ、かわって漢高安茂を貢し、554年に(固徳)馬丁安にかえ、(易博士)王道良五経博士王柳貴、(易博士)王保孫医博士王有㥄陀、(採薬師)潘量豊、(固徳)丁有陀倭国に貢した(貢した=「貢ぎ物を差し上げる」)と記録している[3][4]

伊藤義教の研究によると、王有㥄陀は、歴然としたパフラヴィー語人名で「ワイ・アャーリード(Way-ayarid)」または「ワイ・ヤーリード(Way-yarid)」の(写音)である[2]。「ワイ」はアヴェスター語「ワユ(Vayu)」の(転化)で、別形は「ワータ(Vata)」であり、本来は風神であるが、生・死の神をも意味し、この神格は、実証史料中にも見い出され、「ワータ・フラダート(Wata-fradat)」(ワータによって助長されているものの謂い)という実在の王名があり、サーサーン朝では「ワイ・ボークト(Way-boxt)」という「ワイ」によって救われたものを意味する実在のゾロアスター教の聖職者の人名がある。王有㥄陀の場合「ワイ」を発音の似ている既存の「王」に引き充てたものであり、このように近似した音の漢字で(写音)したとするには、好個の類例がある[2]。すなわち、景教を中国に伝えた阿羅本の「阿」姓はパフラヴィー語のanos(不死の)略写音であるが、敢えてこの「阿」をとったのは、彼が中国人を装い、かつ仏教圏に出来るだけ抵抗を少なくして入国したいなどの用意もあった[2]。百済が中国江南 (中国)と密接な交流があったことは、インドの僧摩羅難陀によって東晋から仏教が伝えられたことからも明らかであるが[5]、百済は、高句麗新羅と比較しても中国南朝との交渉が盛んであり、中国南朝には早い時代からイラン系胡人、アラブ人商人たちが進出していたことが指摘されている[6][7][8]。したがって、王有㥄陀もそのような経路をとって百済に至ったイラン系胡人か、その子孫とみられる[2]

王有㥄陀がゾロアスター教徒であったとすれば、宗教的儀式という観点からあるいは「ハオマ」をつくるのに必須な「」を伝えたのかもしれない。それは、王有㥄陀が採薬師を同伴していたことも、この意味において肝要な事実である[2]

(前川明久)は、王有㥄陀の貢上は「512年から513年任那割譲によって領土を拡大した百済が大和朝廷に与えた代償」と指摘している[4]。一方、『日本書紀』に読まれる歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、継体欽明朝に博士が百済から交代派遣されたとする伝説伝承は、事実とは認め難いとする指摘もある[9][10][11][12]

脚注

  1. ^ a b (日本人名大辞典+Plus)『(王有〓(“りっしんべん”に「夌」)陀)』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f 松木明知 (1983年10月). “欽明朝に来日した百済の医師王有㥄陀について”. 日本医史学雑誌 29(4) (日本医史学会): p. 451-452 
  3. ^ 服部敏良『日本医学史研究余話』(科学書院)、1981年10月1日、22頁。ISBN (4760301003)https://books.google.co.jp/books?id=nIYL5t84rJ4C&pg=PA22=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false 
  4. ^ a b 日本大百科全書『(五経博士)』 - コトバンク
  5. ^ 田村圓澄、(黄寿永)『百済仏教史序説』吉川弘文館〈百済文化と飛鳥文化〉、1978年10月1日。ISBN (4642020861)。 
  6. ^ 杉山二郎『正倉院 : 流沙と潮の香の秘密をさぐる』(瑠璃書房)、1980年、175-176頁。 
  7. ^ 伊藤義教『ペルシア文化渡来考―シルクロードから飛鳥へ』岩波書店、1980年、48-68頁。 
  8. ^ 井本英一『古代の日本とイラン』学生社、1980年1月1日、9-14頁。ISBN (4311200382)。 
  9. ^ 田中健夫石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN (978-4642014496)。 
  10. ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN (978-4896947847)。 
  11. ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN (978-4393191057)。 
  12. ^ 浜田耕策 (2005年6月). (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 6. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。.  

関連項目

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