この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2017年2月) |
この記事には(独自研究)が含まれているおそれがあります。 |
蕭皇后(しょうこうごう)は、隋の煬帝の皇后。後梁の明帝蕭巋の娘。諡は愍で、夫の諡と合わせて煬愍皇后(ようびんこうごう)と呼ばれる。
経歴
江南の風俗では、2月に生まれた子は取り上げないと言われていて、蕭氏はその2月に生まれたために、叔父の蕭岌に養われた。まもなく蕭岌夫妻がともに亡くなったため、母方の叔父の張軻の家で養われた。張軻の家は寒貧であったため、蕭氏は自ら労苦を重ねた。隋の文帝楊堅は次男の晋王楊広(のちの煬帝)のために後梁から妃を選ぼうとしたが、占ったところ後梁の公主たちはみな不吉と出た。そこで蕭巋が蕭氏を張軻のもとから迎えて占わせると、ようやく吉と出たので、蕭氏を晋王妃としてとつがせた。2人の間には元徳太子楊昭と斉王楊暕が生まれた。
蕭氏は学問を好み、文章を作り、占いに詳しく、夫の楊広(煬帝)と似ている部分が少なくなかった。煬帝が即位すると、皇后に立てられた。煬帝が遊幸におもむくたびに、皇后は必ずつき従った。煬帝の失政がひどくなると、皇后は「述志賦」を作って諫めた。
大業14年(618年)、宇文化及が煬帝を殺害すると、皇后は宇文化及の軍に従って柳城に入った。宇文化及が敗死すると、皇后は孫の楊政道(楊暕の遺腹の子)とともに竇建徳の手に落ちた。突厥の処羅可汗が皇后を迎えるべく洺州に使者を送ってくると、竇建徳は突厥に送りとどけた。貞観4年(630年)、突厥が唐の北伐軍に敗れると、皇后は長安に入った。
伝記資料
【(蘭陵蕭氏)系図】(編集)
(蕭整) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南朝斉 | (蕭雋) | (蕭鎋) | 南朝梁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(蕭楽子) | (蕭副子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)宣帝 蕭承之 | 蕭道賜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景帝 蕭道生 | (1)高帝 蕭道成 | (追)文帝 蕭順之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)明帝 蕭鸞 | (2)武帝 蕭賾 | 長沙王 蕭懿 | (1)武帝 蕭衍 | 臨川王 蕭宏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)東昏侯 蕭宝巻 | 斉皇帝 蕭宝寅 | (7)和帝 蕭宝融 | (追)文帝 蕭長懋 | 閔帝 蕭淵明 | (追)昭明帝 蕭統 | (2)簡文帝 蕭綱 | (3)元帝 蕭繹 | 武陵王 蕭紀 | 臨賀王 蕭正徳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)鬱林王 蕭昭業 | (4)海陵王 蕭昭文 | (追)安帝 蕭歓 | (西1)宣帝 蕭詧 | 哀太子 蕭大器 | 武烈世子 蕭方等 | 愍懐太子 蕭方矩 | (4)敬帝 蕭方智 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豫章王 蕭棟 | (西2)明帝 蕭巋 | 河間王 (蕭巌) | 永嘉王 蕭荘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(隋)煬愍皇后 蕭氏 | (西3)後主/靖帝 蕭琮 | 河間王 (蕭璿) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梁皇帝 蕭銑 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||