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澤村源之助 (4代目)

四代目 澤村源之助(よだいめ さわむら げんのすけ、安政6年3月14日1859年4月16日)-昭和11年(1936年4月20日)は、歌舞伎役者。本名は澤村 清三郎(さわむら きよさぶろう)。屋号紀伊國屋俳名に秋香・青岳。浅草田圃に住まいがあったので田圃の太夫と呼ばれ、しゃがれ声と錦絵のような容貌を特徴に、江戸の最後の女形として尊敬を集めた。

よだいめ さわむら げんのすけ
四代目 澤村 源之助

屋号 紀伊國屋
定紋 丸にいの字
生年月日 1859年4月16日
没年月日 (1936-04-20) 1936年4月20日(77歳没)
本名 澤村清三郎
襲名歴 1. 二代目澤村清子
2. 澤村清三郎
3. 二代目澤村清十郎
4. 四代目澤村源之助
俳名 秋香、青岳
別名 田圃の太夫
出身地 大坂
(三代目澤村源之助)(養父)
(五代目澤村源之助)(養子)

生涯

大坂生まれ。幼少時に江戸に下る。三代目澤村源之助の養子となり二代目(澤村清子)。のち澤村清三郎と改名。初舞台は明治3年 (1870) 東京守田座の『廓文章』で吉田屋娘おきよ。明治6年 (1873) 二代目(澤村清十郎)を襲名。明治19年 (1886)、四代目澤村源之助を襲名。

源之助襲名後は有望な若手女形として、九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎の相方を勤める。東西の大歌舞伎を勤めた後、明治35年 (1902) ごろから小芝居に活躍の場を移す。一説には芸者の花井お梅との醜聞が原因で干されたというが、晩年は再び大歌舞伎の舞台にもどる。昭和11年 (1936) 11月明治座の『(鈴木主水噂新宿)』(鈴木主水)の通人が最後の舞台となる。

劇作家木村錦花の実子がのちに養子に迎え入れられ五代目澤村源之助を名乗った。

その芸風と評価

 
澤村源之助の切られお富

明治18年から明治24年にいたる短い期間が源之助の全盛期であっただろうと作家の岡本綺堂は観察している。源之助といえば「水も滴るようなお女郎役者」として少年の頃の綺堂の記憶に刻みつけられていたのだ[1]

三代目澤村田之助の芸を継承し、悪婆とよばれる色気のある世話物の悪女役を得意とした。 当り役は切られお富、うわばみお由、女團七、鬼神のお松、姐妃のお百、蝮のお市など。これらの悪婆の芸は、五代目河原崎国太郎九代目澤村宗十郎に受け継がれた。他に立役では『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の新三、花魁役では『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の八つ橋、『(侠客春雨傘)』の丁山(初演時に主演の九代目市川團十郎から特に指名を受けた)、『(天衣紛上野初花)』(直侍)の三千歳など。

夏祭浪花鑑』の徳兵衛女房おたつ役で、「妾がほれているのは顔やない」と胸を叩き「ここでござんす」ときまる現行の型は源之助が創造した。

国文学者の折口信夫は『役者の一生』(昭和17年・1942)で源之助の芸風を分析し、三代目田之助の死で絶えかけた悪婆の芸を「一時、間に合わせに源之助がさせられたのだが、それが、源之助の役柄を決定してしまったのであった。こうして源之助は人々の渇望に応えて華々しく世に出たのであるが、それは又一面彼にとって不幸なことでもあった」と評し、持って生まれた美貌や芸力を十分に活かせなかったとしている。

脚注

  1. ^ 岡本綺堂『綺堂芝居ばなし』旺文社文庫、2014年、225p頁。 
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