経歴
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 建久7年(1196年)3月20日、侍従に任ぜられる。この時、従五位下。
- 建久8年(1197年)1月6日、従五位上に昇叙[1]。
- 正治2年(1200年)1月22日、備中権介を兼ねる。
- 正治3年(1201年)1月6日、正五位下に昇叙[2]。同月29日、備後守を兼ねる。
- 建仁2年(1202年)1月21日、右少将に任ぜられる。
- 建仁3年(1203年)1月13日、近江介を兼ねる。
- 元久元年(1204年)1月5日、従四位下に昇叙。同日、右少将に留められる。
- 元久2年(1205年)8月16日、父・通資の喪が明け復任。
- 承元2年(1208年)10月10日、母の喪に服す。同年12月28日、復任。
- 承元3年(1209年)1月13日、従四位上に昇叙。同年10月30日、右中将に転任。
- 承元4年(1210年)1月13日、能登介を兼ねる。建暦3年(1213年)4月26日、正四位下に昇叙[3]。
- 建保3年(1215年)1月13日、播磨介を兼ねる。
- 承久2年(1220年)1月22日、蔵人頭に補される。
- 承久3年(1221年)4月16日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。同年11月16日、従三位に叙される[4]。
- 貞応元年(1222年)1月24日、(備中権守)を兼ねる。同年10月24日、左中将の兼任に遷る。11月22日、正三位に昇叙。
- 元仁元年(1224年)12月8日、出家[注 1]。
- 寛喜2年(1230年)4月2日、薨去。享年49。
脚注
注釈
- ^ 出家の理由は明確ではない。