略歴
若くして死去したが、戦死か病没かは不詳。兵庫允・左衛門少尉の官職に就任した(『尊卑分脈』)。また、甥の忠宗(次弟・義忠の子)が義宗の養子となっている。
『(平泉志)』巻之上(一関藩教成館學頭、高平眞藤編)によると、後三年の役の金沢柵の攻防の記事に、
- 「義家朝臣には所労に由り出陣叶はず。弟新羅三郎義光並に嫡子河内判官義忠軍を率て金澤を攻らる。」
との記事を載せるが、この記事の寛治4年(1090年)では、嫡子とされる源義忠は僅か7歳でしかないため、一軍を率いていたとは考え難い。そのため、義忠の他の兄弟であると考え、嫡子というのが単に長男であることを意味すると理解すれば、上記の記事の嫡子は義宗のことと考えられる。