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佐竹昌義

佐竹 昌義(さたけ まさよし)は、平安時代後期の武将清和源氏義光流源義業(進士判官)の長男で、幼名は太郎。佐竹氏の祖。

 
佐竹 昌義
時代 平安時代後期
生誕 承暦5年(1081年
死没 久安3年(1147年)?
別名 佐竹冠者
官位 信濃
氏族 河内源氏義光流、常陸源氏佐竹氏
父母 父:源義業、母:吉田清幹の娘(常陸平氏大掾氏
兄弟 昌義、(山本義定)、(進士行義)、義仲、(證玄)(源尊)
正室:皇嘉門院長官・平扶幹の娘[注 1]
継室:藤原清衡の娘
佐竹義政、(国分義弘)、佐竹隆義袋田義宗、(岡田親義)、革島義季(昌成[注 2]、安藝(僧侶)、義心(僧侶)、娘(吉川経義室)
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嘉承元年(1106年)の(常陸合戦)の際には祖父の義光・父の義業、外祖父の(大掾重幹)とともに下野を地盤とする従父の源義国と戦い、義国の勢力の常陸への浸透を防いだ。義国は足利氏新田氏の祖であり、以降、両氏は下野・上野にそれぞれ勢力基盤を築いている。

生涯

昌義は父から継承した常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)を中心に勢力を拡張し、旧来から常陸国に土着していた小野崎氏などを屈服させ、奥常陸7郡の支配をさらに進めた。また、正室には奥州藤原氏藤原清衡の娘を娶るなど、隣国の有力者との婚姻も結びその勢力基盤の確立に努めている。

保延6年(1140年)、佐竹寺において一節の竹を発見し、吉兆と喜び姓を佐竹と称したとする伝承がある。また、(馬坂城)・太田城を改修しそこを拠点としている。

系譜

子孫

昌義の子のうち、長男の忠義(忠幹)大掾氏の後を継ぎ、次男(六郎とも)の(義弘)は庶子のために分家して(国分氏)の祖となり、家督は嫡子で三男(四男とも)の隆義が継承した。

寛政重脩諸家譜』によると、次男とされるのは袋田次郎と称した雅楽助義宗。三男の(親義)は岡田三郎で、同族の木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いで討ち死にした[2][注 3]。四男が隆義と記されており、五男は五郎義季と名乗り、後に革島昌成と改名した。他に僧侶となった男子(安藝、義心)がいる。

参考文献

  • 洞院公定 著、今泉定介 編『尊卑分脈吉川弘文館、東京〈故実叢書〉、1899年。 NCID BN12488942。 
  • 佐々木紀一 編「『平家物語』中の佐竹氏記事について」『山形県立米沢女子短期大学紀要』 44巻、山形県立米沢女子短期大学、2008年。 

脚注

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注釈

  1. ^ 扶幹の名を快幹とする史料もあるが、扶幹が正しい。『常陸大掾系図』に平成幹(佐竹昌義の母の兄弟)の子としてみられる助幹に比定する説もある[1]
  2. ^ 山城国葛野郡川島庄を拠点とした。
  3. ^ ただし、『源平盛衰記』で登場する源親義(岡田冠者)と混同する見方もある。

出典

  1. ^ 佐々木 2008, p. 12.
  2. ^ 『寛政重脩諸家譜』774頁。

関連項目

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