経歴
母の山田近子は嵯峨天皇の晩年の更衣であったが、啓は特に鍾愛を受けた。勅命により兄の左大臣・源常の養子となるが、常は実の子のように親愛し、日常に必要な器具や玩具を全て与え、才学のある大学生を招いて学問の師となし、書籍を学ばせたという。
文徳朝初頭の仁寿元年(851年)正六位上から六階昇進して従四位上に叙せられる。斉衡3年(856年)(越中守)、天安3年(859年)(加賀守)、貞観5年(863年)(相模守)、貞観11年(869年)(越前守)と、文徳朝から清和朝前半にかけて地方官をいずれも遙任で歴任した。
仏教への信仰心が篤く、親密にしていた年齢の近い甥の源直(源常の子)と、共に出家しようと常日頃語りあっていた。しかし、その意志を果たせずにいたところ、病を発して重態となったことから出家し、貞観11年(869年)8月27日(卒去)。享年41。最終官位は従四位上行越前守。
人物
漢文を非常に愛好したが、射術も得意であり、また音楽の才があり歌も得意であった。性格はつつしみ深く温厚であり、兄弟からも尊敬されたという[1]。
官歴
『六国史』による。