経歴
始め(近江掾)に任官したのち従五位下に叙せられる。治部輔を経て薩摩守に任ぜられるが、治績を以て昇叙された。その後は、頻りに(美濃国司)に任ぜられ、長徳年間に(伊予守)に任ぜられた。伊予国では前任国守の藤原知章の頃に疫病が蔓延して人々が死亡したため田畝が減少していたが、兼資の統治により亡弊の噂は特に聞こえなかったという[2]。伊予守の任期が満了して京に戻ると、伊予の諸郡の郡吏らが上洛して、兼資の治能をもって重任を請ったという[3]。任中に左馬権頭を兼任。
長保4年(1002年)7月の末から寝食が通常を失い、左馬権頭の辞職を請って辞任する。長保4年(1002年)8月6日の辰刻に出家し、同日の巳刻に(卒去)。享年43。最終官位は前左馬権頭正四位下。
官歴
『権記』による。