湯浅 宗貞(ゆあさ むねさだ)は、戦国時代の武将。丹波国(世木城)[1]主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 通称:五郎兵衛尉 |
官位 | 越前守 |
主君 | 内藤国貞→宗勝(松永長頼) |
氏族 | 丹波湯浅氏 |
父母 | 父:(湯浅宗福)(宗正) |
兄弟 | 宗貞、(政常)、(小林宗成)、(吉田貞政) |
子 | (貞清)、(宗清) |
丹波湯浅氏は丹波の国人。中世紀伊国において最大の武士団を率いた湯浅党の一族であり、湯浅宗重の曽孫である宗親の末裔・(宗朝)が丹波世木郷を領したことに始まる。
宗貞は丹波守護代・内藤国貞に従って波多野氏と争っていた。天文22年(1553年)、八上城主・波多野元清が内藤領へ侵攻し、国貞が(本梅郷の戦い)で討死した。この時、国貞には一子・千勝丸(内藤貞勝)がおり、宗貞は園部城において千勝丸を匿い、松永長頼の援軍が到着するまで持ちこたえた。長頼は八木城を奪取した後、千勝丸の後見を務め、尚且つ、内藤氏の名跡を受け継ぎ、内藤宗勝と改名した。
永禄5年(1562年)、教興寺の戦いにおいて、丹波国人衆の一人として内藤宗勝に従って三好長慶方に属する。対する畠山高政方には同族の(湯浅宗政)、保田知宗らが属しており、一族で戦うことになったが勝利を収めた。元亀元年(1570年)、突如、世木城主の地位を捨てて帰農した。家督は子[2]・(宗清)に譲ったという。