出自
経歴
承和3年(836年)従五位下に叙爵。承和7年(840年)宮内少輔に任ぜられると、民部少輔・少納言と仁明朝半ばにかけて京官を歴任する。承和9年(842年)嵯峨上皇が崩御した際には五衛府の兵を率いて兵庫(武器庫)を守備している[3]。承和10年(843年)に発生した文室宮田麻呂の謀反未遂事件においては、左中弁・良岑木蓮と右中弁・伴成益と共に宮田麻呂の所有する平安京と難波の屋敷を捜索し武器を発見している[4](宮田麻呂は伊豆国へ流された)。承和11年(844年)従五位上に昇叙された。
承和12年(845年)に(近江介)に転じると、嘉祥元年(848年)(大和権守)、嘉祥2年(849年)大和守と仁明朝末にかけては一転して地方官を務めている。
官歴
『続日本後紀』による。