概要
海野氏の祖とされることもある(海野広道)(廣通)の次男。源平合戦前後に活躍し、『平家物語』に木曾義仲の侍大将として子の幸広や幸氏と共に登場する。『保元物語』に「宇野太郎(海野太郎)」として登場した人物とされ、信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる海野一族の初見となった。
出身は木曽中原氏((中原兼経)の子)で、義仲の乳母父中原兼遠と兄弟で初めは中原兼保(なかはら の かねやす)と名乗ったという説や、木曾義仲の(四天王)の一人根井行親と同一人物とする説があるなど、不明な点が多い。
兄の幸通の跡を継いで海野氏の当主となり、保元2年(1157年)の保元の乱では、300騎を率いて源義朝の下に参じた。寿永2年(1181年)の木曾義仲の挙兵に呼応して、横田河原の戦いに参戦している。そのまま義仲に従って上洛し、寿永2年(1183年)の備中水島の戦いで嫡男の幸広が平教経と戦って戦死している。同年の法住寺合戦に参加。翌寿永3年(1184年)1月21日の粟津の戦いにて討死し、義仲らと共に七条河原で獄門にかけられた(延慶本『平家物語』)。
系譜
支流・分家
関連項目
参考文献
- 田中豊茂「信濃中世武家伝」信濃毎日新聞社 2016年