歴史
寺伝によれば、光明皇后が病や貧困に苦しむ人々を救済していた際に、阿閦如来が顕現されたのでこれを喜び、本堂を建立されたという[1]。 史実は定かではないが、隣接地に北山十八間戸があるこの地にふさわしい伝承と言える[1]。
元法相宗で興福寺の支配下にあったという[2]。 今の寺容が整ったのは、天文10年(1541年)8月の火災の後、寛文6年(1666年)に浄土宗として堂宇を再建して以降である[1]。 これを主導したのが(賢故坊)[脚注 1]であったため、坊号を賢故坊と呼ぶ[1]。
本堂
棟札により造立時期が判明しており、浄福寺聖誉賢故比丘、寛文6年6月15日と記されている[1]。 その後衰微し破損されるがままとなっていたが、安政4年(1857年)に再興されている[1]。
文化財
本尊
本尊阿弥陀如来が本堂内陣中央に安置される[1]。 鎌倉~室町時代まで遡るともされる[2]古いものだが、光背、台座は江戸時代の再興[1]。
仏像
仏具
周辺
夕日地蔵
当寺の東に、道路を挟んで立つ[1]。永正6年(1509年)[1]、興福寺の僧により[3]造立。 高さ2m程度[2][3]。 地蔵左右に『奉造立供養逆修[脚注 2] 永正六年己巳四月 興福寺住侶権律師浄胤敬白 六十四歳』と刻まれている[2]。 歌人会津八一がこの地蔵について「ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり」と詠っており、木造の歌碑が隣に設置されている[3]。
その他
興善院は菩提院大御堂の東(現菊水楼)にあった塔頭で、蔵俊僧正によって開かれた[2]。蔵俊は聡明で弁舌に長け、八舌僧正とも呼ばれた高僧[2]。治承3年(1179年)9月27年入寂[2]。
ギャラリー
山門下参道
山門
東隣の夕日地蔵
夕日地蔵会津八一の歌