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津軽政朝

津軽 政朝(つがる まさとも)は、江戸時代前期の弘前藩家老。

 
津軽政朝
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安元年(1648年
死没 宝永2年2月11日1705年3月6日
改名 仙千代(幼名)→政朝
別名 信寛、信朝、通称:玄蕃
墓所 青森県弘前市の(宗徳寺)
主君 津軽信政
陸奥弘前藩
氏族 津軽氏→(津軽氏(百助家))
父母 父:津軽信義、養父:津軽信隆
兄弟 信政、(信経)、(信章)、政朝為貞、(為玄)、
(可足)、(祐興)、(正秘)、(政順)、(為永)、萬、
以津、八重、美与、伊与、糸姫ら25男26女
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生涯

陸奥国弘前藩3代藩主・津軽信義の四男として誕生。叔父・津軽信隆の養子となった。

万治2年(1659年)、家督1600石を継いだ。寛文5年(1665年)に玄蕃と名乗り、寛文6年(1666年)には書院大番頭となった。延宝3年(1675年)に城代、そして延宝8年(1680年)に400石を加増され、家老となった。天和3年(1683年)6月、日光東照宮の普請に際し、惣奉行として参加した。貞享4年(1687年)、家老を辞した。元禄16年(1703年)には再び家老となった。

人物

聡明であったと同時に武術にも優れた。常井直則に師事し、居合[注 1]を学び、添田貞俊に従い柔術[注 2]も極めた。拳法は厚さ4、5寸の平石をたびたび割り、馬術では馴縄流馬術を創始した。津軽から江戸まで馬に沓を履かせず、爪を損傷させないで走ることができたともいう。その上、能筆家で茶人でもあった。

・御家(弘前藩)においては、政朝丈(津軽玄蕃殿御家老職二千石)居合の至妙に達し、飛鳥を打ち落とし、宿鳥を手取りにし、気知り強き猫投げも、無先の先々をもって動かせず。物陰より出て三尺三寸の刀をもってこれを殺す自在あり。一切の武芸、この処この場極秘なり。居合の上においても、そのわざその仕方を見、その理、口授を得て詳しくすべしと云々。『高照宮御遺鑑・巻第八』[1]

・我[注 3]が門弟の内、藤原政朝はこの道に長ぜること、予[注 3]が及ばざるところの妙術を著(あらわし)、伝えざるところの秘術を施せる人なる故に、彼が方へ往てこの三つの取組を密伝するに、信ずること、また我が深意に重過せり。(中略)

政朝予[注 3]を助けて曰く、今新たに和の勝利妙用詳らかなることを知れり、無益を省(はぶき)、勝利全き取組を工夫して、益々末流の功労を救わんと云いて、予と共に心身を労し、四肢業用の宜しきを撰び、流儀を改め、本覚克己流を建立せしなり。『和骨簠簋集』[2]

・直則より居合皆伝なされ給うなり。『奥富士物語・第四』[3]

常井直則は十文字槍術、日ノ下一指流と云うに達し、其の伝は津軽玄蕃殿に伝うとなり。『奥富士物語・第四』[4]

・日光にて強き地震に付、御霊屋の御燈火、御用心向心元なく何れも如何あらんとのみにて、詮方なく皆々あくみて沙汰に及難き程なるに、玄蕃一人兎角登らるる限りは、自身罷上り申す可しと断りて、御坂を登る、頂上より大小となく、石の崩れ落ちる事限りなし、其落来る石の上をひたひたと飛登らるるを、見る人々大に感しける。終に御宮に入り御灯をことごとく取消し、返り下りけるに、一入地震もきびしく石もしけく、落来るをよく走りて下りけり。

此人力量早わざの名誉を取りたりしに遅はず[注 4]、此度又此の如き事ありけり。(渡辺利容筆記。[注 5])[5]

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社
  • 「弘前藩の武芸文書を読む」太田尚充著、2010年、水星舎
  • 「津軽のやわら―本覚克己流を読む」太田尚充著、2009年、水星舎
  • 「津軽藩旧記傳類」(みちのく双書, 第5集)青森県文化財保護協会、1958年

注釈

  1. ^ 林崎新夢想流居合
  2. ^ 本覚克己流
  3. ^ a b c 添田儀左衛門貞俊
  4. ^ 違はずの誤記か?
  5. ^ 「高照宮御遺鑑」の事

出典

  1. ^ 「弘前藩の武芸文書を読む」p184
  2. ^ 「津軽のやわら―本覚克己流を読む」p156
  3. ^ 「弘前藩の武芸文書を読む」p29
  4. ^ 「弘前藩の武芸文書を読む」p31
  5. ^ 「津軽藩旧記傳類」p25
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