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洞院公泰

洞院 公泰(とういん きんやす)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿歌人左大臣洞院実泰の三男。公賢・(公敏)の庶弟、守子(後醍醐天皇妃)の同母弟。後宇多法皇の養子となる。官位正二位権大納言北朝)、従一位右大臣南朝)。冷泉(れいぜい)と号した。

 
洞院公泰
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 嘉元3年(1305年
死没 正平19年/貞治3年(1364年)以降
改名 公泰→覚元(法名)
別名 冷泉大納言、冷泉入道前右大臣
官位 正二位権大納言北朝
従一位右大臣南朝
主君 後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇崇光天皇後村上天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院実泰、母:家女房
養父:後宇多法皇
兄弟 公賢、慈厳、(公敏)、守子、公泰実守
大納言典侍(北畠師重の娘)
(実茂)、正叡、実済、賢済、後醍醐天皇官女、西園寺実長室、(洞院公信)室
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経歴

中宮権亮左近衛中将蔵人頭を経て、元亨元年(1321年)6月参議として公卿に列し、8月従三位に叙される。正中元年(1324年正三位、翌2年(1325年)正月左衛門督を兼ね、4月権中納言嘉暦2年(1327年)3月従二位と進むも、元徳2年(1330年)7月に辞任。同年11月正二位に叙された後はしばらく任官の事なく、建武政権下の建武元年(1334年)9月権大納言に任じられて台閣に復帰する。延元元年/建武3年(1336年)正月脇屋義助を大将に据えた宮方軍に参加し、東国から上洛する足利尊氏を山崎にて迎え討ったが、配下の公家は実戦の経験に乏しかったため、敗色が濃くなるとたやすく降参したという[1]。次いで同年5月宮内卿、11月春宮大夫を兼ねる。南北朝分立後は北朝に仕え、興国元年/暦応3年(1340年)12月辞職したが、翌年(1341年)(本座)を許され、正平3年/貞和4年(1348年)10月民部卿に任じられた。

正平6年/観応2年(1351年)12月(正平一統)の際には南朝へ参候し、大納言に任じられる。以後は南朝公卿として累進し、右大臣に昇ったが、やがて散位に移り、正平14年/延文4年(1359年)5月に出家して覚元(覚玄)と号した。出家後も歌会には出詠し、正平19年/貞治3年(1364年[2]以降間もなく薨去したと思われる。

京都歌壇においては、貞和2年(1346年)の『貞和百首』などに詠進し、勅撰集は『続後拾遺和歌集』に1首、『風雅和歌集』に4首、『新続古今和歌集』に7首が入集した他、南朝歌壇においては、正平8年(1353年)の『内裏千首』などに詠進し、准勅撰集『新葉和歌集』には「冷泉入道前右大臣」として45首が入集している。

逸話

  • 雅楽に巧みであり、(御遊)においてはしばしばの演奏を担当した。
  • 増鏡』巻13「秋のみ山」に、公泰は後醍醐天皇から寵妃の大納言典侍を下賜されて、典侍と仲睦まじく暮らしたが、やがて先立たれたという話が見える。
  • 竹柏園本『(耕雲千首)(英語版)』付載の消息文によれば、宗良親王は公泰の歌について、「少も(庭訓)(二条為世の歌論)をばたがへじとよみて候」と称賛したという。
  • 後宇多後醍醐など大覚寺統南朝)の天皇との関係が親密であったためか、光厳光明など持明院統北朝)の天皇の下では官位の昇進が見られない。

系譜

脚注

  1. ^ 太平記』巻14「将軍御進発大渡・山崎等合戦事」
  2. ^ 『新葉集』雑中・1173に公泰の詠歌として、「命あれば三代につかふる名もとめつ六十のいまの関の藤川」とある。従来この「三代」を後醍醐後村上長慶に比定し、正平23年(1368年)の長慶天皇践祚後も在世したとする説が有力だが、公泰が60歳を迎えたのは同19年(1364年)なので、解釈に誤りがあるとしなければならない。
  3. ^ 園太暦』巻1所収「洞院系図」は、名を為頼または兼親に作る。何れが正しいのかは不明。

参考文献

  • 大日本史料』6編22冊、正平14年5月2日条
  • 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、(ISBN 9784305101815)
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