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波多野 宗長(はたの むねなが、?-天正7年(1579年)5月5日)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。丹波波多野氏の家臣。波多野宗高の子。子に(波多野宗貞)。
生涯
波多野氏の一族である波多野宗高の子として誕生した。
播磨国の別所長治や、主家の波多野秀治と結び織田信長に抗戦した。天正7年(1579年)1月、織田氏の家臣の丹羽長秀・羽柴秀長の軍勢に居城(氷上城)を包囲されると、5か月に及び籠城した[要出典]。しかし、城の兵糧が尽きると、羽柴秀長は宗長の才を惜しみ降伏を薦めるが[要出典]、同年5月5日、宗長は城に火を放ち[要出典]、子・宗貞とともに自害して果てた[1]。
なお、明治時代に司法大臣、宮内大臣を歴任した子爵波多野敬直は宗長の子孫を称している。