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法蔵寺 (名古屋市中村区)

法蔵寺(ほうぞうじ)は愛知県名古屋市中村区名駅南二丁目にある天台宗単立寺院

法蔵寺
所在地 愛知県名古屋市中村区名駅南二丁目3番18号
位置 北緯35度09分51.6秒 東経136度53分27.9秒 / 北緯35.164333度 東経136.891083度 / 35.164333; 136.891083座標: 北緯35度09分51.6秒 東経136度53分27.9秒 / 北緯35.164333度 東経136.891083度 / 35.164333; 136.891083
山号 久住山
宗旨 天台宗
本尊 木造阿弥陀如来坐像
正式名 久住山法蔵寺
別称 八角堂
札所等 (大名古屋八十八ヶ所):69番
名古屋七福神:寿老人
(阿弥陀四十八願霊場):第27番札所
法人番号 8180005000160
(テンプレートを表示)

概要

山号久住山(くじゅうさん)。本尊は木造阿弥陀如来坐像で恵心僧都作と伝わっており[1][注 1]、「八角堂」の通称で知られる。

歴史

創建年代の詳細な記録は無いが元々は清須にあった寺で、当初は春日井郡密蔵院末寺であった[1]清洲越しに際して僧侶の豪三によって愛知郡名古屋村六句(現在の西区)に移されたのち、貞享2年(1685年)に替地出来町(現在の西区那古野)に移された際に(福泉寺)の管轄下に置かれた[1][注 2]

享保元年(1716年)に尊寿院[注 3]の六世・智鋒によって新尾頭町(現在の熱田区)の尊寿院の控屋敷へと移されたが、享保9年(1724年)に現在地に移転[1]。同年に比叡山安楽律院の末寺となり、寛延4年(1751年)に江戸寛永寺末となったがその後再び安楽律院末に戻った[1]

享保9年の移転の際、7代藩主・徳川宗春より名古屋城御深井丸にあった八角堂の用材を賜り、翌年にかけてこれを移築して本堂としたと伝わる[2][注 4]。この堂は寛永10年(1633年)に尾張藩初代藩主徳川義直が二之丸御殿の庭園に建立した聖堂で、金声玉振閣(きんせいぎょくしんかく)と名づけられていた[3]。元々清洲城にあったものを移したともされ、義直の没後は解体されていたという[2]。そのほか、尾張名所図会には、寺の門前に清水が湧き出して名泉として名高かったとの記述がある[4]

近代

1931年昭和6年)、火災により八角堂を焼失。直後に再建されたものの、1945年(昭和20年)5月17日の名古屋大空襲により再び焼失した[2]。その後、八角堂は長らく基礎のみの状態であったが、2004年平成16年)に再々建されている。平時は門扉が閉じられており、2016年(平成28年)現在では拝観(一般公開)は毎月第1土曜日のみ。

注釈

  1. ^ なお、尾張名所図会には傳敎大師の作による薬師如来であったとされる
  2. ^ 郡村徇行記は移転先を替地出来町としているが、(張州志略)では広井村の信行院西としている。
  3. ^ 名古屋東照宮別当・天長山神宮寺尊寿院。明治5年に廃寺。
  4. ^ ただし、宗春が藩主となったのは享保15年(1730年)なので、この部分の元の記録は誤記などを含むと思われる。

脚注

  1. ^ a b c d e 名古屋市史 社寺編(1915)、pp.429 - 432
  2. ^ a b c 横地(1983)、pp 168 -169
  3. ^ 鵜飼尚代、2014、「徳川義直と学問 (PDF) 」 、『新修名古屋市史だより』32号、名古屋市市政資料館 pp. 2 - 6
  4. ^ 尾張名所図会、P.193

参考文献

  • 名古屋市役所 編著『名古屋市史 社寺編』、名古屋市、1915年
  • 『尾張名所図会』大日本名所図会刊行会、1919年
    • 愛知県郷土資料刊行会、1970年復刻
  • 横地清・著、生田良雄・発行『名古屋歴史シリーズ(5) 中村区の歴史』、愛知県郷土資料刊行会、1983年
  • 『新修名古屋市史だより』32号、名古屋市市政資料館、2014年
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