泉滝 福治(いずみたき ふくじ、1854年(嘉永7年)3月1日(旧暦2月3日) - 1891年(明治24年)11月9日)は、出羽国飽海郡(現:山形県飽海郡)出身の元大相撲力士。本名は太田 福治(おおた ふくじ)[1]。
来歴
1854年(嘉永7年)3月1日(旧暦2月3日)に出羽国飽海郡(現:山形県飽海郡)で生まれる。1879年1月場所において二段目(現在の幕下)から初土俵を踏み、1882年1月場所で新十両昇進[1][2]を果たすが、すぐに番付を下げてしまい、1886年5月場所で再十両となった。その後も十両の地位で低迷し、新入幕を果たしたのは1891年1月場所、既に36歳に達していた[3]。しかし、この場所を1勝6敗と負け越したことで十両に転落すると、同年5月場所終了後に大阪での巡業中にコレラに感染し、同年11月9日に死去、37歳没[4]。