河崎 なつ(かわさき なつ、1889年6月25日 - 1966年11月16日[1])は、奈良県五條市出身の政治家、女性解放運動家、評論家、教師。
「母親がかわれば社会がかわる」を唱えて第二次世界大戦後の第1回参院選全国区から日本社会党の参議院議員を1期務めた[2]。教師として、西村伊作、与謝野夫婦(与謝野鉄幹、与謝野晶子)らと共に1921年に文化学院を創立し、自らも国語の授業を行った。
来歴・人物
父・河崎常三郎、母・ さとのあいだに長女として誕生。兄には久太郎、徳太郎、繁太郎の3人を持つ。さとはなつを産んでまもなく結核で死去。常三郎はその後、継母・とみをむかえ、妹・ちかを持つことになった。父は時計屋。奈良師範学校出身。家の近くに芝居小屋があり、そこでよく歌舞伎や芝居、狂言を見ていたため、狂言では立役、女形をこなすことができた。
五條市立五條小学校の教師をしていた1921年に文化学院の創立に関わり、1921年-1941年まで文化学院の教師を務めた。その間1924年婦人参政権獲得期成同盟会の中央委員を務めた。
その後、1947年の第1回参院選当選で日本社会党の参議院議員を務めたが、次期で落選した。その後は1955年日本母親大会実行委員長を務めた。落選後も白梅学園短大教授などをつとめ、累計約60年間教師生活を送った[2]。
教師時代
文化学院創立時、学院内で教員経験を持っていたのは河崎だけであった。生徒との接触は一番多く、そのため学院のお母さん的存在だったと言われている。河崎は国語の授業を担当しており、その時の教科書は学院内で作っていた。授業は脱線することが多く、狂言を生徒の前で発表したりもしていた。また、女性の立場というものをよく考えていて、自分でも行動し、生徒にもよく語り、生徒自身にも女性の立場を考えさせていた。
著書
関連文献
- 林光著『母親がかわれば社会がかわる 河崎なつ伝』草土文化、1979年
脚注
関連項目
外部リンク
- 文化学院
- 国立国会図書館近代デジタルコレクション「河崎なつ」