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池田修一

池田 修一(いけだ しゅういち、1945年2月12日 - 2006年7月3日)は、将棋棋士花村元司九段門下。棋士番号102。青森県八戸市出身。

 池田修一 七段
名前 池田修一
生年月日 (1945-02-12) 1945年2月12日
没年月日 (2006-07-03) 2006年7月3日(61歳没)
プロ入り年月日 1969年4月1日(24歳)
引退年月日 2000年8月20日(55歳)
棋士番号 102
出身地 青森県八戸市
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 花村元司九段
段位 七段
棋士DB 池田修一
戦績
通算成績 244勝494敗(0.3306)
2016年10月23日現在
(テンプレートを表示)

経歴

1960年に15歳で奨励会に入る。

1964年 - 1965年の頃に肺結核を発症し、1966年(昭和41年)の7月から1968年(昭和43年)5月まで故郷で治療入院していた。当時三段で無収入であったが、医療費は医師の温情で出世払いとなり、生活費は親友でプロになりたての中原誠四段(当時)が支えていた[1]。病気復帰の翌年である1969年に四段昇段[2]

1972年1982年王位戦で本戦リーグ入り。1982年には、米長邦雄永世棋聖(当時棋王)を破るなど活躍した。

1993年竜王戦において中井広恵に敗れ、女流棋士に公式戦で敗れた最初の棋士となった。同年に現役勤続25年を達成した。

2000年8月20日に引退。通算成績は244勝494敗。2004年4月1日付で七段に昇段。

心筋梗塞のため、2006年7月3日に61歳で死去した。

人物

  • 同じ東北地方出身の中原誠(宮城県塩竈市育ち)とは少年時代[注釈 1]に対局してからの仲である。その対局で勝利した池田は、当時は高級品であったバナナを中原にプレゼントした。
  • プロ入り時より出身地の八戸市に住み、対局の度に東京に出てくる生活を送っていた[2][3]。1990年頃に池田を八戸に訪ねた先崎学は、タクシーの運転手に「将棋の池田」で通じるなど「八戸の大名士」であった池田について記している[3]
  • 地元新聞「デーリー東北」に将棋欄をつくり[2]、観戦記の執筆などもこなしていた。
  • 1977年より毎年八戸市で開催されている「はちのへ将棋まつり」の運営責任者を務めていた。

昇段履歴

  • 1960年 - 入門
  • 1969年4月1日 - 四段
  • 1976年4月20日 - 五段
  • 1988年4月13日 - 六段
  • 2000年8月20日 - 引退
  • 2004年4月1日 - 七段

主な成績

表彰

  • 1993年 現役勤続25年

脚注

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ 当時池田11歳、中原8歳

出典

  1. ^ “中原人情流”. 将棋ペンクラブログ (2015年10月31日). 2022年2月6日閲覧。
  2. ^ a b c “花村元司九段でさえ手こずったこと”. 将棋ペンクラブログ (2015年10月31日). 2022年2月6日閲覧。
  3. ^ a b 先崎学「八戸の名士の死」『山手線内回りのゲリラ』2007年、日本将棋連盟、206‐209頁。

関連項目

外部リンク

  • 池田修一|棋士データベース|日本将棋連盟
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